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2011/12/31

「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」へ(前編)

 昨日30日、仕事の絡みで「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」へ行って来た。
日石寺(にっせきじ)は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山(おおいわさん)で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。別名・金剛不壊寺」という。

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← やや急な石段を登っていく。この下が駐車場など。まだ明るい。

 また、「寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうき)の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている」とも。

 さらに、「一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている」ということで、勢い良く落ちる六本の滝を間近で眺められるので、圧巻である。
 観光客はその長めに圧倒され、また滝飛沫に心身とも潤い、また、夏場は特に涼むことができるわけである。

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 真言宗の信者ならずとも、「大岩山日石寺は、立山連峰の裾野にあり、「大岩のお不動さん」と呼び、多くの方に古来より親しまれてきた、信仰の地であり、観光の地である。

 小学生の頃、車を持つ方に乗せてもらって、家族らで訪れた記憶がかすかにある。
 というより、帰郷した4年前、何かの折にこの寺のことが話題に上り、自分も行ったことがあると言われ、最初は半信半疑だった。
 でも、じゃ、行こうということになって、親戚の方たちと一緒に現地に赴いて、その寺の佇まいを見て、そうだったと思い出したものである。

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 実際、今回、仕事で日石寺のある山を訪れ、車で急斜面を登っていって、山門や滝、寺のやや麓の駐車場などを観て、ああ、ここに来たことがある! と記憶や思い出が蘇ったものだった。
 観光の地としてのこの寺は、実は夏場、「そうめん」で有名である。

 ただ、このように書いていながら、実のところ、我々親戚や知り合いの中でだけ「そうめん」が有名なのか、信者ではない我々が「大岩山 日石寺」を訪れるのは、夏場で涼むのが目的であり、その際、必ず「そうめん」を食べるのが楽しみとなっているので、内輪の中でだけ有名なのか、分からない。

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 が、せっかくなので、この機会にと調べてみたら、「門前町情報」として、「百段坂お店通り」なる頁があって、そこに、以下の記述があった

大岩山日石寺の百段坂沿いにはお食事処や旅館が建ち並んでいます。各お店には、「そうめん」や「ところ天」、「山菜」や「川魚」などをご提供しています。
中でも「そうめん」が有名で、「そうめん」と言えば大岩山日石寺と言われるくらいです。

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 なんだ、やっぱり、「そうめん」と言えば大岩山日石寺だったのだ。
 みんなが日石寺へ来たら「そうめん」を食べたがるのも無理はないのだった。

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コメント

こんばんは。
家も真言宗です。高幡不動なんかと同じ派の。
観光地でもあり、信仰の場でもある、やはり高幡不動みたいなものかな。
ご存知のように高野山奥の院では、空海がまだ人びとを救っているとして朝昼晩の御膳を出しているのですよね。
だけど今回の震災で宗教ははっきり無力だと思う。
あとは個人個人の小さな幸せ探しだけが残るように思う。
なにはともあれ、良いお年をお迎えください。

投稿: oki | 2011/12/31 21:36

okiさん

年が明けてのレスとなりました。

明けましておめでとうございます。
コメント、ありがとう。
本年もよろしく。
今年も…、いや、今年こそ、いい年であってほしいです。

高幡不動! 懐かしい。
一度だけ、オートバイでツーリングの際に立ち寄ったことがあります。


宗教がこのたびの震災に対し、無力だったかどうか、俄かには決められないと思います。
発生することに対し、また、起こった被害が人災の面において必要以上に大きくなったことに対し、無力と呼ばれても仕方のない面があったのは事実かもしれません。

ただ、釈迦に説法でしょうけど、多くの宗教関係者(団体)が、被災地に赴き、それぞれの活動を熱心にされたのも事実のようです。
でも、公共放送(電波)で、個別の宗派の活動を紹介するわけにはいかない。
なので、実態は、個別にそれぞれの会報などで確かめるしかないでしょうね。

その上で、宗教が無力かどうか、国民が宗教に期待しているかどうか、それは、それこそそれぞれの団体(宗派)の会報(宣伝)で、たとえば門徒や会員が増えているかどうか、などで間接的に確かめることも一法かもしれない。
あるいは、年始の初詣に繰り出す人の数で、宗教への期待値が分かるかも。

こうした上で、さて、宗教とは、となると、かなり深甚な問いをしないといけないでしょうね。
3・11以降、(アメリカやヨーロッパの在り方が根底から問い直されているし)価値観が問われる、そんな節目を迎えてしまった以上は、各宗派や宗教人はもちろん、誰もが生き方を考え直さないといけないと思います。

さらに屋上屋を重ねる話をすると、(高校生の頃、親鸞にかぶれたせいか)そもそも宗教は、現世利益とは無縁なものと思っています。
現世の実害に対し有効だとか無力だとかなんて議論は馴染まないもの、ただひたすらに救いがあるか、あるいは祈りへの志向があるか、もっと言うと、祈りへの思いを募らせ、その思いを支えてくれるか否か、その灯りとなるかどうか、だけが大事と思っているのです(無論、これは親鸞の思想じゃなく、似非親鸞に過ぎませんが)。


まあ、かく言う小生は、日々をやり過ごすのに目一杯の状態ですが。

投稿: やいっち | 2012/01/01 10:44

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