報恩講の意味も知らず
なんたって、「浄土真宗の御教えを明らかにしてくださった宗祖・親鸞聖人の法要」なのだ! 檀家からのお布施は、お寺を経由して、本山へ上納されるらしい。親鸞についての本は、それなりに読んできたものだが、こういった実際の日常的な実相には、疎い小生であることを露呈してしまった。本山にとっても、大事な大事な行事なのだ。
父母が昨年、七月に相次いで亡くなったので、月命日が月に二度ある。
仕事の性格上、一旦、仕事に出ると、一日不在となる。
そんな日が月に12回ほど。
仕事のスケジュールが月命日の日と重なることもしばしばである。
先月もだが、今月も、仕事の日程と月命日の日とが二度とも重なっている。
なので、本来の形ではないことは重々承知の上で、時には、日にちをずらせて、お寺の住職さんに来てもらい、月命日の法要を営むわけである。
そんな日は、仏壇に仏花や仏飯、果物(大抵は、ミカンかバナナで済ませている…申し訳ない)などを供えたりするのは当然だが、家の中の掃除をする。
そうして、住職をお迎えし、お勤めをするわけである。
そのお勤めの後、雑談の中で、報恩講の話を切り出したのだった(案内はあったのに、結果的に等閑視状態となっていたのだ)。
いろいろやるべきことは山積している。
その全ては到底、できないので、何かしら手抜きする。
小生、滅多に掃除はしない。
庭や(今の時期だと落ち葉が凄いので)側溝などの掃除は、体を動かす意味もあるし、世間体(!)もあるので、在宅の日は、雨が強く降っていたりしない限り、必ずやる。
でも、家の中は、住むのは自分だけだし、(玄関までの客は別として)来客があるわけでなし、掃除はまずしない。
せいぜい、汚れがちな台所や食事をしたり、生活する時間帯の長い居間(茶の間)の、まあゴミを片付けたりするくらいである。
→ 外回りの仕事だけは、それなりにやっているが…。
何処かしら手を抜かないと、やってられない。
親戚づきあい、近所づきあい、町内会、会社の同僚との付き合い、などなど、最低限に抑えている。
というより、現実的にできない!
これは、弱音だろうか。
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コメント
先月、母方の祖母の三回忌に行ってきました。
父方とわたしたちは真言宗なのですが、母方の家はやいっちさんと同じ浄土真宗でした。
記事とは話がずれますが、鮮烈な事件だったので、書かせてもらいます。
外に出て独り、ぶらぶらしながらタクシーを待っていると、タクシーが来て玄関の前に駐車する動きに入りました。
測道に幅寄せしてバックしたとたん、消火栓の標識のポールにぶつかってしまいました。
ブレーキランプからライトまで割れていた。
どうするかと見ていると、運転手は車の状況を判断し、乗り込むと、走り去ってしまいました。
代わりに別のタクシーが来て事なきを得ました。
叔父が○○会社は事故は個人負担だ、かわいそうに、と言ってました。
事故を起こしたタクシーは他の車と入れ替わる決まりになっているのでしょうか。
投稿: 瀧野信一 | 2011/12/11 01:52
瀧野信一さん
いろいろやってはいるのですが、怠っていることも多々あって、忸怩たる思いです。
まあ、ボチボチと、ですね。
困った事故に遭遇しましたね。
「事故を起こしたタクシーは他の車と入れ替わる決まりになっているのでしょうか」
事故を起こした車にお客さんを乗せるわけにいかないでしょうし、決まりとか何とかじゃなく、当然の処置として、代わりのタクシーが呼ばれたのでしょうね。
年末になると、自損事故を中心に事故が増えがちです。
わが社でも、例外ではなくて。
事故を起こした場合、修理代を当人が負担するかどうかは、会社の規定次第です。
小生が前に所属していた会社では、ある程度、自己負担ですが、多くは会社が負担。
その代わり、売り上げに対する本人が得る割合が減るかもね。
小さな事故(自損事故で、ウインカーのレンズを破損した、など)の場合、自己負担になることも。
自己負担にすることで、記録上、会社の記録に残らない。
つまり、内分に済ますわけです。
そのほうが、運転手としては負担が結果的に減る。
投稿: やいっち | 2011/12/12 21:00
報恩講(親鸞さんの祥月命日ですよね)
親鸞さんの恩に報いる法事とでもいうのでしょうが祖母に連れられて小さいころ、よく出かけていました。
年に一回だけではなくて、月命日のように何度もあったと記憶しています。
住職の御経や説教はほとんど覚えていませんし、当時は意味もわかりませんでしたが
祖母が手を合わせて南無阿弥陀仏というと、私もまねしてました。私の目的は
終わると出されるおときの食事が楽しみで、毎回行っていたことを懐かしく思い出します。
こちらは母の月命日にも、お寺からお参りには来ません。
投稿: さと | 2011/12/13 12:36
さとさん
小生、報恩講にはまるで馴染みがありません。
高校を卒業してすぐ、富山を出たので、宗教的慣行の類いは、ガキのころの知識しかない。
小生は、お盆や正月などに帰省する、その際にそういった話題に接することはあったろうけど、ほとんど関知しなかった。
さとさんは、小さい頃のこと、よく覚えておられるのですね。
感心するというより、思い出があることが羨ましく思います。
ひるがえって、自分の宗教心の貧しさを痛感するばかり。
月命日は、住職さんが遠慮していることもあります。
しばしばお勤めをお願いしているならともかく、檀家さんの都合も分からないし。
時代ですし。
小生にしても、この日に来てくれと、電話などで連絡してお願いしているのです。
(例えば、今月は、父母の月命日の両日とも、仕事。なので、その前後の日に来てもらうわけです。)
さとさんも、都合のいい日を決めて、連絡を取って、来てもらうのがいいのかな、なんて思います。
投稿: やいっち | 2011/12/14 04:07
パソコンの動きが悪く長々と書けませんが・・・
「報恩講」はご説明通りの意味ですが、北陸では長い真宗風土のなかで“民俗行事”になっています。日付についても、お西とお東で違っていますね。
「ほんこさん」「ほんこまいり」という言葉も、年配者の中では日常語といっていいでしょう。私にしても、民俗学に縁が無かったり、五箇山の風俗にふれる機会がなかったら身近に感じることはなかったでしょう。
「ごまんさあれ(御満座荒れ)」(=あの雷鳴とどろく「鰤起こし」(雪雷))という言葉もあります。調べてみられることをお勧めします。
なお、「荒屋」地名、小百合姫については、後日?。
投稿: かぐら川 | 2011/12/14 20:09
かぐら川さん
パソコンの調子、心配ですね。
実を言うと、小生のパソコンも不調。
キーボードは、ノートブックだけど、早々と壊れ、新規のをUSB接続している。
動きが悪く、モーターが唸っている。
今にも絶命しそう。
修理も買い替えの余裕もなくて、暗澹たる気分です。
さて、小生、高校卒業と同時に富山を出た。
高校までの記憶は多少はあるものの、当時は宗教的行事に熱心とは到底、言えるはずもないし。
以来、数年前に帰郷するまで仙台や東京暮らし。
折々の帰省はあっても、ほんの数日ですから、富山の風習や、それこそ、方言を含めた言葉遣いも、東京弁と地元の言葉がチャンポン。
自分でも、言葉の使い方が変だったりします。
報恩講。
帰郷するまで、というより、父母が亡くなったあとの、今年になるまで、まるで馴染みのない風習。
帰郷した頃には、父母は、お寺さんの相手もできず(元気な頃は、お寺さんの活動も、神社の活動、民謡、旅行と活発に関わり世話などしていました)、よって報恩講も、小生はその機会に接することも、話題に上ることもなかった。
今年は報恩講は……だな、とか、父が呟くのを聞いたような。
「ごまんさん」や「やいと」も、お袋らの話題でちょっと聞きかじりましたが、当時は、聞き流すだけでした。
我ながら、惜しい機会を逃したものと、忸怩たる思いです。
投稿: やいっち | 2011/12/16 12:47