「生物と無生物のあいだ:ニューヨークの振動」余談(後編)
どうも、本書の内容をあまり丁寧に紹介していないようで、心苦しい。
ネットで本書の書評や感想文の類いは、数多く見出せる。
一つだけ、内容の要約に近いサイトがあったので、紹介しておく:
「生物と無生物のあいだ:読書記録:So-netブログ」
→ 本日の庭木の剪定作業のメインイベントは、泰山木の枝葉の思い切った伐採。泰山木は、生命力が強いのか、枝葉はグングン伸びるし生える。枝葉の剪定は毎年やっているが、今年は、冬の間は、雪が降り積もらないよう、裸木に近い状態にした。
その上で、小生には(多分、多くの方にも)とても印象的だった、エピローグの最後の一文を示しておこう(多くの、必ずしも理数系に強くはないと思われる方々をも魅了した、筆者の書き手としての力量を存分に示す一文であると思われる):
ある日、住宅のはずれの植え込みの陰に小さな楕円形の白い卵を見つけた。トカゲの卵だった。その場所にいつもトカゲたちが出没するのを私は知っていたので、その卵が何であるかすぐにわかった。 私はそれをそっと持ち帰って土を敷いた小箱にいれて毎日観察した。乾き過ぎないように時々霧噴きで湿り気を与えた。しかし何日待っても何事も起きなかった。トカゲの卵が孵化するのに季節によっては二ヶ月以上を要することまでは、当時の私にはわからなかったのだ。 少年の心はずっとはやっていた。待ちきれなくなった私は、卵に微小な穴を開けて内部を見てみようと決意した。もし内部が "生きて" いたらそっと殻を閉じればいい。私は準備した針とピンセットを使って注意深く、殻を小さく四角形に切り取って覗き穴を作った。するとどうだろう。中には、卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲの赤ちゃんが、不釣合いに大きな頭を丸めるように静かに眠っていた。 次の瞬間、私は見てはいけないものを見たような気がして、すぐにふたを閉じようとした。まもなく私は、自分が行ってしまったことが取り返しのつかないことを悟った。殻を接着剤で閉じることはできても、そこに息づいていたものを元通りにすることはできないということを。いったん外気に触れたトカゲの赤ちゃんは、徐々に腐り始め、形が溶けていった。 この体験は長い間、苦い思いとともに私の内部に澱(おり)となって残った。まぎれもなく、これは私にとってのセンス・オブ・ワンダーであったのだ。それはこうして生物学者になった今でも、どこかに宿っている諦観のようなものかもしれない。
← 福岡伸一/阿川佐和子【著】『センス・オブ・ワンダーを探して―生命のささやきに耳を澄ます』(大和書房) 人気者二人の対話本! [2011/11/01 出版]! 本書を紹介するのは、ちょっとした偶然(?)のゆえ。昨夜(10月31日の深夜)、NHKラジオ第一を聞いていたら、エッセイストの阿川佐和子へのインタビュー番組が。その中で、本書が紹介されていたのだ。対話の相手の「福岡伸一」…。何処かで聞いた名前だなー、と思ったら、何のことはない、小生がこの二週間ほど、車中で読んできた本書『生物と無生物のあいだ』の著者ではないか! ということで、尚のこと、今日の日記に福岡伸一(の本)を採り上げるしかないと思ったわけである。
蝶のサナギを観察する…だけならともかく、トカゲの卵を観察し、しかも、卵の中を敢えて覗こうとする。
科学者の卵たる著者の資質の片鱗が現れている。
科学者どころか、碌な観察家でさえもなかったガキの頃の小生と比較するのは、気恥ずかしくてできるはずもない。
こうした、苦い体験を原点に筆者の生物学上の主張が生まれてきた…。
→ 2本ある庭の棕櫚の木も、(枝)葉を大胆に切り捨てた。天辺の数本の葉を残しただけ。雪が積もらないように! 他に、松の木やツゲ、山茶花、夾竹桃などなども剪定した。冬の準備を早めに。棕櫚を巡っては、「棕櫚の樹や麦の話と二毛作」なんて日記を書いたことがある。
生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂(い)いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。 これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。生命と環境との相互作用が一回限りの折り紙であるという意味からは、介入が、この一回性の運動を異なる岐路へ導いたことに変わりはない。 私たちは、自然の流れの前に、跪(ひざまず)く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からずっと自明のことだったのだ。[本文中においては、畏敬の念を篭め、筆者らへの敬称は略させていただきました。]
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