真冬の夜の月
仕事柄の賜物というべきか、夜の空とたっぷり付き合えるのが嬉しい。古来より美しいものとして和歌にも歌われてきた雪月花。その三つを味わえるのが1月の中旬頃から今ごろなのではなかろうか。
← 画像は、「月の魔力?」より。
月は別に満月である必要はない。が、満月の凄みは格別なものがある。まして、冬の月となると、何か徒事ではないような気分にさせてしまう。一月の満月は月初めの頃で(八日だったと思う)、まだ、その頃は梅も蕾だったはずである。
というより、公園の脇で休憩していても、梅の木の傍にいることさえも全く気付いていなかった。
それが、今月に入ると、紅梅白梅も咲きほころび、五日頃には満月かなと思わせるようになり、本当の満月になるのは六日らしいが、七日くらいまでは満月に近い状態の月を愛でることができる。
さすがに、東京では雪月花のうちの雪には恵まれない。別に東京のような都会にあっては雪など厄介なばかりなので、降り積もることなど期待されてはいないのだが、単に風物として眺めたいというエゴイズムからしたら、ちと寂しいかもしれない。
せめて、ちらほらでも降ってくれたら、などと未練がましく書き連ねていたら、雪が降る…、空が曇っている…、月の姿が見られないかも…、梅だって雪を被って白い衣の下で凍えているだけかもしれないし…、などと思われ、となると、雪の降った後の晴れ上がった満月の夜という状況を待ち望むしかなくなる。
→ 画像は、「月影のワルツ?」より。
ここまで来ると、東京では年に一度どころか、数年に一度、そんな僥倖に会することがあるだけとなってしまう。まあ、梅がダメなら雪椿でもいいのだけれど。
それでも満月と梅の花とが揃えば、もう、言うことはない。
誰しも感じることかもしれないけれど、冬の真夜中過ぎの月は空気の冷たさと湿気のなさが相俟って、凄まじいものをさえ覚えさせる。その上、風でも吹いていようものなら、厚着をしていても、立ってのんびり月を眺め上げるなんて、呑気な真似はできるはずもない。
幸いにして、五日の夜中も、七日の未明にしても、肌を刺す風に妨げられることなく、冬の月の光を浴びる梅の花という光景を堪能することができた。
堪能ということが、心の寂しさとか貧しさの自覚を排除しないのだと思いたい。
← 画像は、「月 - Wikipedia」より。
小生が休憩する公園は、すぐ傍に高速道路があって、車の音が喧しい。タイヤの鳴る音で下駄のカランコロンという音を代用させるのは、興醒めかもしれない。
それでも、未明の街中を窓をほんの少し開けて走ると、タイヤが道路と擦れる音が夏とは違うことを感じさせる。タイヤも冬は縮こまっている…、なんて感じるのである。
だからだろうか、真冬に凍えた道路をグリップしようと頑張っているタイヤに共感するような妙な気分に襲われたりして、タイヤに向って、「頑張れよ!」とでも、声を掛けてみたくなったり、それはそれで楽しかったりする。
多くの公園には水場があって、水道の蛇口を捻るとちゃんと水が出る。飲んでも大丈夫なのだろうけれど、鈍った体と心しかない小生は手を洗ったり口を漱ぐくらいのものである。
それでも、時に水を手に掬うだけのことはする。食事の後、歯を磨いたりして、歯ブラシも洗う必要が生じる。一分にも満たない間に手がかじかんでくる。
ふと、公園の隅を眺めたりすると、植え込みには蝙蝠傘などが幾つか散見される。公園が木立に身を潜めるカラスたちや折々に姿を見せる猫たちだけの住処ではないことを思い知る。
冬の月に衾(念のために「広辞苑」を使って説明すると、ふすま=布などで作り、寝るときに身体をおおう寝具)も、藁一束の代わりもあるのだろうけれど、夜目にも色の褪せた黒い傘の咲く植え込みをわき目に見ると、水の冷たさを嘆く贅沢が恥ずかしくなってしまう。
→ 画像は、「沈む夕日を眺めつつ……音楽拾遺」より。
古(いにしえ)の世、月にはうさぎさんが居て、杵で御餅を搗いているのだと言われていたとかいないとか。月にちなむ伝説やタブーの類いは数多い。
真冬の月は、冴え冴えとしていて、真っ白に輝いているというより、時には酷薄なほどに蒼白だったりする。まさに磨き立てられた、裸の心と体を映す鏡だと思われたりする。
真ん丸の、曇りのない鏡は、魂の底の底まで、隅の隅まで射抜くような強烈な光を放つ。月は地上世界の誰をも、どんなものをも照らし出しているはずなのに、一人、真夜中過ぎの人気のない公園に立つと、まるで自分一人のために照っているような錯覚を覚える。
不思議なのは、太陽だって、例えば、地平線の見えるような荒野に立てば、そうした己のみを焼き焦がす、というような錯覚を覚えてもよさそうなのに、そうはいかない。全く、別の感懐を抱いてしまう。
何故なのかと考えていくと、そこには夜の闇という衣装というか衣裳のせいだと気付かされる。夜の帳(とばり)が地上世界の全てを覆ってしまう。限りなく漆黒に近い、だけれど、何処までいっても暗黒には至ることはないのだろうと予感させる、不思議な衾をこの世のあらゆる風物と共に我が身も羽織ってしまうのである。
← 画像は、「月影を追い 地べたを這う」より。
藍色の世界、凍て付いた紺色の闇の海の底の沈黙のざわめき。世界が一色に染まって、そうして月と己とのみが対峙しているような、眩暈に似た感覚。己が何処へ立ち去ろうと、そこには月の光が待ち受けていて、魂の鏡に我が身と心を晒すように促されてしまう。闇に雑念も光景も沈み込んでしまって、浮かび上がるものというと我が身と心しかないのだから、詮方ないのだろう。
真冬の夜の月は、照っているのは、月ではなく、赤裸の己なのだと悟らせる。だからこそ、凄みを帯びて見えてしまうのだろう。
未明の公園でしばしの休憩を終えて、もう一仕事する。気がつくと、あれほどの闇は次第に透明度を増し、やがて星も月も消し去ってしまう。
もう、月も姿を消した、仕事も終わりだと思っていたら、眩くなり始めた低い空にポッカリ月が。有明の月! それとも残月? もしかしたら名残の月と呼ぶべきなのか。どうしてこの期に及んでまで月が…。何か見詰め足りないものがあったというのだろうか。そんな後ろ髪の引かれる思いのままに都会の路上という我が仕事場を去っていくのだ。
→ 画像は、石川賢治 月光写真展「天地水 月光浴」より。
月影関連拙稿(一部):
「有明の月に寄せて」
「月影に寄せて」
「十三夜の月と寒露の雫と」
「真冬の満月と霄壤の差と」
「月影を追い 地べたを這う」
「月影のワルツ?」
「真冬の月と物質的恍惚と」
「月影に寄せて」
「初秋の月影を追う」
「朧月…春の月」
「沈む夕日を眺めつつ……音楽拾遺」
「月の魔力?」
「メロンの月」(創作)
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