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2011/10/17

我が町・我が家のこと(3)

 お地蔵様についてはともかく、観音堂の由来は、十三日に住職に話を聞いたことで、ある程度、知ることが出来た。
 もともとは、我が町の成り立ちとも関係する。

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← 御堂の中の様子を格子の透き間から撮影してみた。安置してある像はといえば、確かに観音様たちである。

 わが町を含め、近隣一体は、赤祖父家という、江戸時代、富山藩の家老に抜擢された地元の実力者の領地だった。
 赤祖父家いつの世からか、広い領地(農地)を持っていた。

 富山市にもあるが、高岡(…というより南砺市)などにも、赤祖父家の土地があった(あるいは、赤祖父という地名の土地に領していたから、赤祖父という苗字を名乗るようになったのかもしれない。赤祖父家は、どうやら江戸時代以来の豪農らしい富山城の千歳御殿の門が、明治時代に赤祖父家に移築されたほどの豪農だったようだ)。

 実際、南砺市には、赤祖父山(あかそふやま)や小矢部川水系の川である赤祖父川がある。
 相当に勢力のあった一族だったのだろう(今も、その末裔がいて、学者や政治家など各界で活躍しているようだ)。

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→ 近所のある方が、日々、御堂に清掃をされていた。その上、御堂に随時、仏花を二揃え、供えられていた。その家の方が、そこまで熱心だったのにも、訳があったのだと、ようやく分かった。その方は一人暮らしされていたが、高齢であり、家族のものが心配して、ケアハウスに入所された。自分が居なくなったら、御堂を誰が世話するのか、頻りに心配されていたっけ。


 家老に抜擢されるほどの実力のある家である、菩提寺も当然ながら、ある(富山からするとよそ者である前田の殿様が領地を差配するには、地元の有力者の力を借りる必要があったのだろう)。

 実際、我が家のお墓もある、町外れの一角の墓地には、赤祖父家の累代の墓がある。
 その墓地の中では、群を抜いて立派な墓で、武家の菩提寺の一角にあってもおかしくはないような、別格といっていい区画。


 その菩提寺に、観音様も安置してあったらしい(この辺りの話は、詳細を忘れてしまった。どうやら武家だけに、真言宗の家だったらしいが)。
 やがて赤祖父家が高岡か何処かへ越していって、あるいは、富山にある赤祖父家が没落して、当然ながら、その菩提寺も、寄進するものもなくて、やがて廃寺となってしまった。

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← 「水系赤祖父川 赤祖父ダム 赤祖父湖」(堰堤右岸から上流方向) (画像は、「ダム湖の風景」の中の「赤祖父ダム 赤祖父湖」より) 「赤祖父山」については、「越中・赤祖父山は花よしブナよし眺めよし お山の神様ARIがとう-ウェブリブログ」がいい。

 恐らくは、その菩提寺にあった、累代の墓が、移動して、我が家などの墓もある墓地に収まったのだろう(確然とはしないが)。
 街道沿いにあった、我が家からも数十メートルのところにあった菩提寺は、やがて取り壊され、そこはガソリンスタンドになった(農地解放で、赤祖父家などの土地、農地は、小作に渡され、小作人たちは、売り払ったり、他のっ用地に転用した)。


 となると、菩提寺にある墓石も、観音様(小生が勝手にお地蔵さんと思い込んでいた)たちも、邪魔となる。
 立派な墓石類は、奥まった、田圃の奥に、近在の者たちの墓石と一緒に墓地に収まり、観音様は、我が家の目の前に、木造の小屋を作って、観音堂に仕立てた、というわけである。

 この大正時代だったかに廃寺となった赤祖父家の菩提寺についても、印象的なエピソードを伺った。
 菩提寺は、実は尼寺だった。最後にお寺を守っていた尼さんを巡るエピソードである。
 尼さんは、相手は分からないが妊娠した。
 生まれた女児は、知恵遅れだった。

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→ 年内最後の草むしりとなることを願いつつ、畑の草むしりに没頭する日々。伸び放題だった雑草を刈ると、そこに姿を現した花。鳳仙花、だろうか。種は畝に蒔いたのは確かだが、咲いたのは、畝の間に点々と。

 尼さんは村(今は町だが)に居づらくなったか、去った(あるいは、若くして亡くなってしまった)。
 残された女児は、村の中で苛められて育った。
 苛められる…とは、どんな苛めか、想像に任せるしかないが。

 畏敬する富山にも縁のある作家・久世 光彦に、『早く昔になればいい』(新潮文庫)という小説がある。
 この小説「早く昔になればいい」には、「無言坂(ごろざか)」が出てくる。富山市の五艘(ごそう)にある実在の坂である。
 実のところ、「「ごろ」は富山の方言では「唖(おし)」の意味。もう今は廃寺となった尼寺、その最後の庵主は聾唖者だったそうだ。だからその寺に続く石ころだらけの坂道を土地のものは「無言坂(ごろざか)」と、そう呼んでいた」ということで、何か由縁を感じてしまった。

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← 所用があって近所を自転車で動き回ったら、町の随所(大概は更地・空き地)に「背高泡立草 (せいたかあわだちそう)」が目立ち始めていた。小生が東京在住時代、最後の十五年ほど居住していたアパートの庭(元は芝生だったのだが)にも、秋ともなると、背高泡立草が、その名の通り、背高く育っていたものだった

 小生に小説家の才があれば、廃寺となった赤祖父家の菩提寺での最後の尼さん(の娘さん)に纏わるエピソードをネタに小説を仕立てるのだが。)

 他にも、メモしておきたい話がいろいろあったが、また、機会を改めて書こうと思う。


参照拙稿:
厩出し(うまやだし)
棕櫚の樹や麦の話と二毛作
お地蔵さん……ん?
秋麗(あきうらら)
無言坂…早く昔になればいい

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