児童画のこと(前編)
子供の頃は、誰でも、あるいは多くの方は悪戯に、気侭に絵を描いていた。絵だとは思わず、衝動で、与えられた、あるいはそこらに転がっている鉛筆や色鉛筆、筆、その他で新聞紙や広告、壁などに落書きしていたのではなかろうか。
→ 庭を見て回っていたら、裏庭の藪同然となっている一角に、それこそ密生する枝や葉っぱの陰に隠れるようにして、何かの実が生っているのを発見。一体、正体は何? そういえば、昨年は全く生らなかったミカンだが、今日、実が一個、生っているのに気づいた。まだ濃い緑色。今年は少しは収穫が期待できる?
さて、その児童画だが、本書(谷川晃一著『絵はだれでも描ける』)にもあるように、小学校などで美術のイロハを習ったり、そうでなくても、長じるにつれて社会常識を学ぶに従い、児童の頃の自由奔放な絵の面影は消滅していき、型通りの、常識に囚われた、技術や様式の習得度などで点数の計られるような類いの絵に変貌していく。
で、上手か下手かで色分けされるようになり、自分は下手だとなったら、描き方の指導にうんざりしたら、もう、絵は自分は嫌だとか、自分には描けないとなってしまう。
← 谷川晃一著『絵はだれでも描ける』(生活人新書、NHK出版)
かく言う小生もその一人である。
小学校の四年か五年の頃までは将来は漫画家になりたいと思っていたのだ。が、あっさり挫折してしまった。
とにかく、自分の描くものに個性がない、味気ない、アイデアが湧き出てこない、などと、自分の貧相さにガッカリしてしまったのである。
→ 裏の車道に面した花壇に作っている緑のカーテンの様子を見に行ったら、庇の上に白いハトを発見。目が合ってしまった。9月23日以来だ。そのときは、二度見かけた場所それぞれに曰くありそうだったが、今回見かけた場所にはどういった曰くがあるのだろう。それとも、我が家で一番、日向ぼっこしたら暖かそうな場所だったからか。
でも、密かには描きたいとは思ってきたし、まして描ける人が羨ましくてならなかった。
漫画家も画家であろうと、デザイン画であろうと、それは詩の書ける人が羨ましいというのと、どこか共通しているような気がする。
自分に、型や常識にがっちり取り込まれた、窮屈な感性しか感じられない裏返しでもあった。
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