« 梅原猛著『葬られた王朝』を読んで(後編) | トップページ | 『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(後編) »

2011/10/11

『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(前編)

「宇宙」は、コスモスなのかカオスなのか。
 時代と共に、あるいはその人(々)の人生観の変貌に連れて、変化する。

Autumnfruit_005

→ 我が家の庭には、今、咲いている花は少ない。これは庭の野草! 

 秩序を希(こいねが)うのが人類の性(さが)なのか、秩序だって居ないと生きることが余りに困難だからか、カオスの様相を呈する困難な状況にあっても人は、秩序や規則性や、あるいはさらに、どうやっても人の理解を超える闇の世界(としか思えない中)にあっては、天の意思(意図)めいたものを見出そうとしてきた。

 元始、世界は、わたしの見える周囲が全てだった。
 わたしの周りにはいろんな人々が、多くは親であり、兄弟姉妹であり、親族であり、近隣の誰かだが、時には見知らぬ誰かがわたしに話しかけてきたりした。
 わたしは、その世界の中の、何物なのか分からないけれど、わたしはその世界の住人…少なくとも仲間の一人と見做されているようだった。

2577311_3

← 村山斉著『宇宙は本当にひとつなのか』(講談社ブルーバックス 副題:最新宇宙論入門) 数式一切なし。理系のセンスのない小生も、楽しく読めた。仕事の手の合間に、一日であっさりと読了! ブルーバックスには、中学生の頃から随分とお世話になってきた。

 わたしは何もできず、周りの人がいろいろ手を尽くしてくれた。
 やがて、わたしは自分だって世界に関わることが可能だと気づいた。
 わたしは、世界の中の一人、見渡す限り、見慣れた事物と風景に取り囲まれた世界の住人だった。
 それは、揺り篭の延長としての世界に過ぎないとしても、その世界を自らが自らの足で確かめることが可能な、手の触れえる、足の踏み出すことができる世界だった。


 やがて、わたしの世界は、他のわたしの世界とぶつかるようになった。
 わたしは世界の中心ではなく、ちやほやされていると思しき人間が、この世界にはもっと他にもいる、中には自分より保護されているような人間さえ、この世界には居ると気づき始める。

 このわたしの世界は、馴染みの世界のはずなのだが、ある日、親たちの目の離れた隙に、<そと>の世界へ踏み出してみると、やはり、わたしは世界の中心ではないことに気づかされる。
 好奇の念に駆られて崖を、木を攀じ登って、あるいは穴の深みに嵌ってしまう。

Autumnfruit_002

→ 南側の車道に面する花壇に育つマンデビラ。ツルが伸びているかどうか分からないが、今も、花は咲いてくれている。

 わたしが世界の中心にあるのであり、常に誰かに見守られているはずならば、誰かが助けに来てくれるはずなのだ。
 でも、誰も来ない。
 わたしは闇の洞穴の中で、途方に暮れる。

 一体、これはどうしたことなのだ。
 誰もわたしの危機に気づかないなんて、ありえることなのか。
 何かの手違いがあって、それとも、みんな何かに忙しくて、たまたま駆けつけてくれはしないというに過ぎないのか。

 …ほんの幸運に過ぎぬ偶然で、わたしは何とか苦境を脱する。
 木の高みから、何とか降りることが出来た。
 出っ張りを掴む手が、力尽きて崖を真っ逆さまに落ちることなく、崖を降りることが出来た。最後は、えいっばかりに飛び降りて!

H_p82520

← レオナルド・サスキンド著『宇宙のランドスケープ  宇宙の謎にひも理論が答えを出す』(林田陽子/訳 日経BP社) もう、5年前の本なのだが、決して色あせていない。というより、近々の実証データ如何では、脚光を浴びるかもしれない。実に面白い本だった。

 わたしは迷子になっていた。
 見知らぬ世界で途方に暮れていた。
 
 そんなわたしが夕暮れになってやっとのことで帰ってきたというのに、母は、そ知らぬ顔で夕餉の準備にかまけるばかり。
 わたしは世界の中心になど、決して居ない。
 わたしを見る目は、時に途絶えることがある。
 わたしを見守るものは、親を含め、誰も居ない。

 …神も仏も…。

 やがて、世界は違う顔を見せ始める。

Autumnfruit_003

→ 花はほとんど咲いていないが、その代わり、いろんな樹木に実が生りつつある。花も実もある庭にしたかったが、せめて実が生ってくれるだけでも有難い。


 世界は私の足の及ぶような世界に限られるわけじゃなく、どうやっても(少なくとも今は)届かない世界があると思い知らされるのだ。
 同じ場所と時間を共有する世界には、わたしより足の早い人、わたしより背の高い人、わたしよりませている人、わたしより誰彼に愛されているひとがいると気づかされたのだ。

 わたしの世界の外にも世界がある。
 わたしの世界とは別の世界。
 もっと広い世界。

 世界は、誰を中心に回っているのだろう。
 世界は平面ですらない。
 歩いても歩いても、果てにたどり着けない。
 どんな叫んでも届かない世界がある。

|

« 梅原猛著『葬られた王朝』を読んで(後編) | トップページ | 『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(後編) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

富山散歩」カテゴリの記事

写真日記」カテゴリの記事

コメント

「上の花は、シュウメイギク(秋明菊)ですね、」と書こうとして、アレッ、いつぞや同じことを書いたぞと思って、検索してみたら、昨年の10月28日のコメント欄にありました。なんとそこには、やいっちさんの「昨年も教えていただいたことは覚えているのですが・・・」のコメントが!。これを健忘症というのでしょうか。それとも?。
拙ブログようやく、リンク欄のつくり方がわかり、おととい発足しました。ご報告まで。

投稿: かぐら川 | 2011/10/12 22:42

かぐら川さん

ご指摘、もっともです。

我ながら、情けない。

秋明菊については、何度も、扱っているし、教えていただいていましたね。

昨秋も。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/11/post-159d.html

なんだか、秋明菊の花、何か、今年のは貧相に見える。
秋明菊に限らず、土壌が痩せてしまったのか、どの花も咲き方が弱弱しいような気がします。

前にも書いたけど、花や樹木については、自宅の庭なれど、名札を下げておこうか、なんて、真剣に考えています。

投稿: やいっち | 2011/10/13 20:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(前編):

« 梅原猛著『葬られた王朝』を読んで(後編) | トップページ | 『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(後編) »