ニューヨークの振動(後編)
思わず読む手が止まってしまったのは、本書の第12章「細胞膜のダイナミズム」の冒頭の「ニューヨークの振動」と題された一節である。
← 福岡 伸一【著】『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書) 「生きているとはどういうことか―謎を解くカギはジグソーパズルにある!? 分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える」。本書についての感想は、たとえば、「生物と無生物のあいだ (内田樹の研究室)」が面白い。特に、「福岡先生がオズワルド・エイブリーとルドルフ・シェーンハイマーとロザリンド・フランクリンいう三人の「アンサング・ヒーロー」(unsung hero、すなわち「その栄誉を歌われることのない、不当にも世に知られていない英雄」)に捧げた本」という件は、同感である。実際、本書を読んでこれらの科学者への関心を掻き立てられた。
節の題名が「ニューヨークの振動」とあったりするところに、本書の著者の書き手としての資質の一端を嗅ぎ取れるやもしれない。
研究のためニューヨーク(マンハッタン)からボストンへ移動した著者は、ボストンも東海岸特有の美しさのある町だと感じる、が、しばらくして、「ニューヨークで私を鼓舞してくれた何ものかが欠けていると感じられた」として、以下のように続く:
ボストンに住んでしばらくたったある日、私は徹夜実験を終えて実験棟から早朝の街路に出た。芝生はしっとりと朝露を含み、透き通った空には薄い雲が一筋たなびき朝焼けの茜色に染まっていた。あたりは静けさに包まれていた。
そのとき、ニューヨークにあってここに欠落しているものが何であるかが初めてわかった。それは振動(バイブレーション)だった。街をくまなく覆うエーテルのような振動。
誰もが急ぐ舗道の靴音、古びた鉄管をきしませる蒸気の流れ、地下に続く換気口の鉄格子から吹き上がる地下鉄の轟音、塔を建設する槌音、壁を解体するハンマー、店から流れ出る薄っぺらな音楽、人々の哄笑、人々の怒鳴り声、クラクションとサイレンの交差、急ブレーキ……。
→ 茶の間があまりに殺風景なので、いろんな花々を生けてみた……と言いたいところだが、全て造花。もう、何年も前から我が家の台所の片隅に置きっ放しだった。慶事か何かの際に飾ったものなのだろうか。
ここまでなら、ニューヨーク(マンハッタン)の喧騒と熱気に慣れ親しんだ、知性も感性も鋭い、研究で成果を挙げんとする意欲たっぷりの人間には、いくら閑静な環境や綺麗な空気と青い空があっても、ボストンでは、何かしら物足りなさを感じてしまうのも無理はない…と考えがちである。
が、著者の話は、小生の貧しい想像力では思いつかない方向へ展開していく。
マンハッタンで絶え間なく発せられるこれらの音は、摩天楼のあいだを抜けて高い空に拡散していくのではない。むしろ逆方句に、まっすぐ垂直に下降していくのだ。マンハッタンの地下深くには、厚い巨大な一枚岩盤が広がっている。高層建築の基礎杭はこの岩盤にまで達している。摩天楼を支えるため地中深く打ち込まれた何本もの頑丈な鋼鉄パイルに沿って、すべての音はいったんこの岩盤に到達し、ここで受け止められる。岩盤は金属にも勝る硬度を持ち、音はこの巨大な鉄琴を細かく震わせる。表面の起伏のあいだで、波長が重なり合う音は倍音となり、打ち消しあう音は弱められる。ノイズは吸収され、徐々にピッチが揃えられていく。こうして整流された音は、今度は岩盤から上に向かって反射され、マンハッタンの地上全体に斉一的に放散される。
この反射音は、はじめは耳鳴り音のようにも、あるいは低い気流のうなりにも聴こえる。しばしば、幻聴のようにも感じられる。しかし街の喧騒の中に、その通奏低音は確かに存在している。
この音はマンハッタンにいればどこででも聴こえる。そして二十四時間、いつでも聴こえる。やがて音の中に等身大の振動があることに気がつく。その振動は文字通り波のように、人々の身体の中へ入っては引き、入っては引きを繰り返す。いつしか振動は、人間の血液の流れとシンクロしそれを強めさえする。
この振動こそが、ニューヨークに来た人々をひとしく高揚させ、応援し、ある時には人をしてあらゆる祖国から自由にし、そして孤独を愛する者にする力の正体なのだ。なぜならこの振動の音源は、ここに集う、互いに見知らぬ人々の、どこかしら共通した心音が束一されたものだから。
こんな振動を放散している街は、アメリカ中、ニューヨーク以外には存在しない。おそらく世界のどこにも。
実験で遅くなると窓のない研究室を出て、外の空気が吸える場所に行き、私はしばしボストンの夜空に耳を澄ませた。どこからか通奏低音が聴こえるのを待った。時折何かが聞こえてはきた。自動車の通り過ぎる音、夜風が葉裏をこする音、道路を横切る足音。けれども常に夜のしじまは静かにすべてを包み込み、やがて圧倒していった。
← ルネ・ユイグ著『かたちと力―原子からレンブラントへ』(西野 嘉章/寺田 光徳訳 潮出版社) 「卓抜な論理と470点を超える多彩な図版によって奔騰するイメージは、かつてない生成のダイナミズムの扉を拓く」といった本。「松岡正剛の千夜千冊『かたちと力』ルネ・ユイグ」参照。
ここに転記した件(くだり)は、かなり小生の関心を惹いた。
いろいろ思うことはあるが、反論もだが、同感(共感)もしかねる。
なんといっても、小生はニューヨーク(マンハッタン)へは行ったことも、まして滞在などしたことがないのだから。
ただ、岩盤がどうこうということは、否めない(必ずしも福岡氏のみとは言い切れないように思える)着眼点なのだろうが、ボストンに限らず、大都会の喧騒とは無縁のカントリーであっても、マンハッタンとは全く異質の、次元自体が異なるような、通底する何かがあるのでは、と思ってしまう。
→ ビニールの袋に詰め込んであった造花の数々を全て飾ってみた。秋のものもあるが、違う季節のものも。まあ、観るのは小生だけだから、気にしない、気にしない。
東京暮らしを30年。富山に帰郷して3年と半年。
ニューヨーク(マンハッタン)とボストンといった対比を、東京と富山との対比という形に持ち込むのは無理があるとは思う。
でも、東京から都落ち(?)のようにして富山に帰ってきて、身の丈に合った暮らしができる…かも、と思いつつも、何か魂の中のモチベーションのようなものが脱落してしまった自分を持て余し気味なのは確かである。
同時に、富山ならではの何かを見出したい、見出さないと、自分が腐ってしまうという焦りのようなものがあるのも否めないのである。
その意味で、福岡氏のボストンへ来ての感懐を正面から否定できないとしても、何か違うんじゃないか、と言いたい、言えるような自分になりたいと、チラッと思ったのも事実なのである。
参考サイト:
「生物と無生物のあいだ (内田樹の研究室)」
関連拙稿:
「スチュアート著『2次元より平らな世界』」
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