富山(南砺市)と南相馬市…相馬二遍返し
過日、「江戸時代に現在の南砺市から大勢の農民が渡った歴史がある福島県南相馬市で開かれる移民200年交流会」が催された(といったニュースをテレビで最近見た)。
その交流会では、踊りや「相馬二遍返し(そうまにへんがえし)」という民謡が披露された:
「ピアノで織りなす福島県民謡「相馬二遍返し」 Rikiya Life is Now/ピアニスト・中村力哉のブログ」
この民謡(唄)は、「天保の大飢饉で3分の2の人口を失った相馬藩が移民奨励策としてこの唄を用い、大いに相馬の楽土たることを喧伝したことにはじまるといい(岩波版)、この唄の趣旨に関連したものと考」えられている。
歌詞の一部は(テレビでもその部分だけ、放映されていたが)以下のように:
♪ハアー相馬相馬と木萱もなびく(ア コラヤノヤット)なびく木萱に花が咲く 花が咲く(ハアー イッサイコレワイパラットセ 大灘沖まで パラットセ)
富山県の南砺(なんと)市は8月11日に南相馬市と、災害時相互応援協定を結んだ。
このことは、南相馬市同様、富山県(南砺市)においても、テレビや新聞などで報じられていた。
南砺市も福島県にある南相馬市も、平成の大合併で誕生した新しい市である。
「FM放送アーカイブ 南砺市さん、ありがとう(8月18日初放送)」によると、「南砺市からは、震災後間もない3月24日に、多くの市民からの支援物資が届きました。その日以来、南砺市の職員が、大震災直後で、人も少なかった南相馬市役所へ派遣され」た。
南砺市はまた、「南相馬市の子どもたちを、夏休みぐらいのびのびと遊ばせたいという「南相馬こどものつばさ」プロジェクトにも、積極的に協力し」た。
「なぜ、こんなにやっていただけたかというと、歴史的なつながりがあるからだそうで」:
いまから、230年ほど前、南相馬市や相馬市は、相馬中村藩と呼ばれていました。相馬中村藩は天明の大飢饉のため、人口の3割近くが亡くなりました。その飢饉の30年後くらいから、中村藩には現在の南砺市のあたりから、約1万人の人が移住してきました。移住してきた人の多くは、浄土真宗門徒の農民で、多くの荒地を復旧し、相馬中村藩の復興に大きな役割はたしたということです。その名残で、相馬中村藩だった地域には、他の東北地方にくらべて、真宗の寺院が多いそうです。
この「天明の大飢饉」について、本ブログのテーマに関連して、もう少し、情報を付け加えたい。
「富山県南砺市 南相馬市と災害時の相互応援協定を締結|地べた物語・堺名所図会」の中の「相馬中村藩への南砺地方農民の移住について」によると:
浅間山の噴火などに起因する天明の凶作は、北陸地方ではさほど大きな被害が出なかったのですが、東北地方の被害は甚大でした。相馬中村藩(藩域は現在の南相馬市・相馬市など)では、天明3年(1783)の飢饉で全人口の9パーセントにあたる 4,417 人が飢餓と病気で亡くなり、1,843 人が失踪、さらに翌4年も飢餓と疫病で6月までに8,500 人が亡くなるという惨状でした。そのため、人手不足による農地の荒廃が進み、30 年を経た文化年間に至っても回復をみていなかったのです。
それにしても、なぜ、東北は福島の相馬へ、富山(越中)の砺波から人々が移り住んでいったのか。
さらに、「相馬中村藩への南砺地方農民の移住について」によると:
そこで、中村藩は文化8年(1811)ころから北陸を中心として領外に労働力を求め、積極的に移民を導入する政策をとりました。浄土真宗門徒が大多数を占める北陸では、真宗の教えによって間引きを厳禁していたこともあり、人口が増大して土地が不足するという、東北諸藩とは全く逆の現象下にあったのです。
なるほど、『古事記』でのイザナキ、イザナミの出会いじゃないが、「我、成り成りて成り余るところあ」るところの北陸は越中の真宗門徒が「我、成り成りて成り足らざるところあ」るところの相馬へ移り住んだということか。
しかし、そもそも、当時は多くは百姓であろう農民(町民とは考えられないし)が、幕府などの許可を得ずしてよその藩へと移住など、できるはずもない。
秘密裏に行われたとしても、一人二人の移住ではないのだ、気づかれないはずもない。
なんといっても:
文化10年(1813)から弘化2年(1845)までの約 30 年間で、北陸などの他領から 8,943 人、戸数にして 1,974 軒が移住し、荒地復旧を中心にして 16,682 石の水田と 14,684 石の畑地、合計3万石余りの土地が開発されたといいます。相馬中村藩の表高が6万石、実高でも9万7千石であったことを考えると、いかに移民の努力が復興に大きな役割を果たしたかが分かります。
つまり、「移民の導入は弘化2年以降も継続されたので、最終的には1万人前後が入植したと考えられ」るというのだ!
ただ、移り住んだ先の相馬においては、露見を恐れて、移住者らは徹底して秘密を守り通したという(このことが関連資料の乏しさに繋がったようだ。当人たちが口を閉ざしてきた歴史があったわけだし)。
あるいは、少なくとも中村藩においては、労働力の必要上、藩の立場で移民を導入していたということなのだろう。
そんなことを幕府が認めるものなのか、小生には分からない(幕府も大目に見ていた、ということか)。
富山については、北海道へ、ブラジルへと、再々に渡る移民の歴史があるのも事実。
しかし、なぜ、北陸(越中)から、遠い福島(相馬)へ、なのか。
他にも人口の有り余っていた地域はあったろうに。
実際、富山が他地域への移民の数が傑出して多いわけではなかったらしい(「沖縄県における出移民の歴史及び出移民要因論」参照)となれば、尚更、疑問は残る。
小生は、富山の貧困、そして長男は家を守るため残るとして、次男・三男などは新天地を求めるしかないから、と、簡単に理解していたが、背後に「浄土真宗門徒が大多数を占める北陸では、真宗の教えによって間引きを厳禁していたこともあり、人口が増大して土地が不足する」という事情があったとは知らなかった。
北陸(その中でも浄土真宗色の濃い地域)は、間引きはともかく、中絶の実態は、他の地域と比べて、どうだったのだろう。
富山など北陸から、何ゆえに遠い相馬へ、という疑問はともかく、ただ前提として、富山藩のことは、福島の諸藩(のみならず、幕府や薩摩藩を含め全国の藩)がある種の親しみを持って知っていたのも事実のようだ。
言うまでもなく、越中の売薬である。
「1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した江戸城腹痛事件という逸話がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった」のは、少なくとも富山の人間なら度々聞かされてきたことだろう。
それゆえ、「越中富山の薬売りと相馬への移民(江戸時代の情報伝達の謎) 相馬郷土史研究(著作権者 小林勇一)」によると、「この一部始終を目の当たりに見た諸大名たちが、前田正甫に対して反魂丹を大量に製薬して各地に販売するように要請したために全国に名が知られるに至ったという」し、「相馬藩からも代々の医者の家があり江戸に医者になるために行かせることになった。 医者と薬はかかせないものだが三春藩は相馬藩の隣だし相馬藩主の姫も過去に嫁いだこともあり三春藩の話はいろいろと入りやすかった」のである。
越中(南砺市)から南相馬市への移民に関して、既に詳しい研究がなされているのだろうか。
何か関連情報を得たら、追記したいと思っている。
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コメント
お馴染み、かぐら川さんに、情報をいただきました。
下記の日記のコメント欄を参照願います:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2011/11/post-ccbb.html
せっかくなので、関連する事項を転記しておきます:
新開ゆり子さんは、小生は、全く、未知の作家です。
紹介された内容からして、どうやら、『虹のたつ峰をこえて』のようですね。
「この本は第22回青少年読書感想文全国コンクールの中学課題図書に選ばれた」とか。
「瑞雲山中原寺 ~農民の魂に宿っていたもの~(12月10日)」なる日記(講話)がとても参考になりました:
http://www.chugenji.jp/talk58.html
この講話の中で、「Nさんの本には次のようにしたためられています」として、以下の引用がされています:
「江戸時代中期の寛政のころ、真宗王国といわれる越中から数百キロ離れた関東、東北南部へおびただしい逃散人(走り百姓)が移住した。
加賀藩が支配する慶長の頃から、厳しい掟をつくり、極度に逃散人を警戒し厳重な取り締まりと、情け無用の刑罰によって、逃散人だけでなく、逃散人を事前に知っていた者まで死刑にするほどであった。
こんな手かせ、足かせの禁令を百も承知で、命がけの逃散であり、遠い他国の旅路は、早くて3ヵ月、時によっては、半年以上の過酷の道中であったのに、逃散者は後を絶たないほど、北陸の農民たちの生活は苦しく、絶望の日々を過ごしていたのだ。辛苦の旅を重ねて、関東に光明を求めた農民も、その多くはたくましく、根を張り、8代9代を数える程遠い昔の出来事となった。」
投稿: やいっち | 2011/11/10 21:19
ご紹介ありがとうございます。以下、おまけ:
新開さんの本は、最初の移民をテーマにした上掲『虹の立つ峰をこえて』(1975.12)とその後の移民をテーマにした『海からの夜明け』(1981.9)があります。『海からの夜明け』などは少年少女向け?というには本格的なドキュメンタリーに近いものです。
富山県側の本格的な研究でまず目を通すべきは、千秋謙治「砺波移民の相馬中村藩への移民」(『砺波山村地域研究所紀要第26号〔2009.3〕所収』)かと思います。
投稿: かぐら川 | 2011/11/11 20:43
かぐら川さん
さすがに詳しいですね。
いろいろ教えていただき、ありがとう!
富山のこと、ホント、知らないことばかり。
富山関連の本に限らず、そして本件に限らず、関連情報、自分なりに確かめ、味わっていきますね。
投稿: やいっち | 2011/11/12 22:11
金沢市在住の50代女性です。義理の姪が南相馬出身。私が富山県出身と聞いて「江戸時代に飢饉があって、南砺市から5千人ほど移住してきた。私にも富山の血が流れている」と聞いた。てっきり富山に大飢饉があったのだと勝手に解釈していたが、逆だったんですね。興味深く読ませていただきました。
投稿: 由美子 | 2014/02/26 20:52
由美子さん
南砺市と相馬市の交流は今も続いていて、一層、深まりつつあるようです:
お知らせ - 南相馬市でのマラソン交流に参加しました。 | 南砺市
http://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=11644
お知らせ - 南砺市から福島県南相馬市へ支援 | 南砺市
https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7793
お知らせ - 福島県南相馬市の桜井勝延市長が田中市長を表敬訪問 | 南砺市
http://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=11506
今後も交流が続き、深まるといいですね。
投稿: やいっち | 2014/02/26 23:18