「葬式仏教の誕生」をめぐって(後編)
ちなみに、若い頃、父は小生に出家すればと示唆したことがあった。
実際、近い親族に出家した人がいる。
さて、本書を読んで、やはり、印象的だったのは、「葬式仏教」の誕生した歴史的経緯である。
日本への仏教伝来以来、奈良などの仏教は、「国家加護という至上命題があった」。
「当時の僧侶は、鎮護国家の祈祷のために国に雇われた官僚だった」わけである。
そうした「官僧たちは、いわば官僚的な存在であって、清浄であることを求められ、死穢などの穢れを忌避していた。それゆえ、死穢を不可避とする葬式に関与した場合、一定期間は鎮護国家の法会に参加できず、神事に関わるのを憚らざるを得ないなど種々の制約があった」のである。
では、平安時代、否、鎌倉時代になっても事情は同じだったが、死者(死骸)はどのように扱われたのか。
例えば、浄土真宗の開祖である親鸞は、「それがし閉眼すれば、加茂川に入れて魚に遊ぶべし」といった言葉を残している。
つまり、「自分が死んだら死体は加茂川に流して魚の餌にしろ」と言っているわけである。
死体(死骸)は、野に、川に捨てるのが当たり前だったわけで、親鸞にしろ、自分だけを例外扱いされようとは思わなかったわけだろう。
死体どころか、重篤な病に罹ったなら、貴族の館の従者でも、屋敷のそと、河原に放棄されたという。
誰にも看取られることなく、死を迎えるしかなかったわけだ。
死に瀕する人間が、一人自らが死の恐怖に面するしかなかったということか。
「鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた」とか。
貴族(の関係者)であっても、河原などで獣のエサとなる当時の事情の例外ではなかったわけだ。
当然ながら、墓場もなければ、墓石もあるはずもない。
(本書の帯には、「日本人は、いつから墓石を建てるようになったのか?」とあるように、本書は墓石についても、詳述してある。後日、機会を設けて書いてみたい。)
そこに、鎌倉時代、徐々にだが、特に遁世僧を中心に、弔いの儀に関わるものが登場してくる。
浄土真宗に限らず、禅僧においても、意識の変化が生じてきた。
前後して、「穢れ」についても、認識の変化が生じてきた。
「往生人に穢れ(死穢)なし」という発想の誕生、これが葬式の誕生に繋がったということだろう。
これは、親鸞に連なる念仏僧に限ったことではない。
天皇家の葬儀も遁世僧が引き受け始めたのである(「泉涌寺」は、その典型だろう。その前は、官僧が天皇家の葬儀に従事していた)。
これは、小生の憶測に過ぎないが、死に瀕する人々への惻隠の情もあろうが、葬儀に関わることで、遁世僧の生きる術(すべ)が成り立ったとも考えられそうである。
結果、いつの間にか、本来の仏教の営みを忘れ、堕落する僧侶も現れてくるわけである。
→ 竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」 「帷子辻」とは、「京都市北西部にあったとされる場所」で、檀林皇后が自ら望んで打ち棄てられた地の名。「この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、ということを自ら示して人々の仏心を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した」という。
では、僧侶は、本来の務めに専念すべきであり、葬儀に仏教(僧侶)が関わらないとして、死のあり方は如何にあるべきか。
ここには、現代が抱える悩ましい問題がありそうである。
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