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2011/10/08

「葬式仏教の誕生」をめぐって(後編)

 ちなみに、若い頃、父は小生に出家すればと示唆したことがあった。
 実際、近い親族に出家した人がいる。

 さて、本書を読んで、やはり、印象的だったのは、「葬式仏教」の誕生した歴史的経緯である。

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 日本への仏教伝来以来、奈良などの仏教は、「国家加護という至上命題があった」。
「当時の僧侶は、鎮護国家の祈祷のために国に雇われた官僚だった」わけである。
 そうした「官僧たちは、いわば官僚的な存在であって、清浄であることを求められ、死穢などの穢れを忌避していた。それゆえ、死穢を不可避とする葬式に関与した場合、一定期間は鎮護国家の法会に参加できず、神事に関わるのを憚らざるを得ないなど種々の制約があった」のである。

穢れという観念が日本に流入したのは、平安時代だと言われる。死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。また、平安時代後期以後、国家鎮護や天皇・貴族のために加持祈祷を行う上位の高僧(学侶)には皇族や貴族出身者など上流階級出身者の子弟が増加し、彼らは神祇祭祀の主催者である天皇に仕えるために身の清浄さを維持する必要が生じたため、葬儀など穢れに接する可能性の高い行事へは参加をせず、堂衆と称された下級僧侶や遁世僧と呼ばれる聖が行うようになり、僧侶間の階層分化を進める一因となった」。

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穢れているとされる対象としては、死・病気・怪我・女性ならびにこれらに関するものが代表的で」、「具体例を挙げると、文化・宗教によって大きく異なるが、排泄物・腐敗物、血・体液・月経・出産、特定または一般の動物・食物、女性・男女間のあらゆる接触ならびに行為(ごくまれに男性、同性間の性関係ならびに行為)・自らの共同体以外の人(他県人・外国人・異民族)やその文化・特定の血筋または身分の人(不可触賎民など)・特定の職業(芸能、金融業、精肉業等)・体の一部(左手を食事に使ってはならない等)などがある。これらは必ずしも絶対的な穢れのみというわけではなく、行為などによって異なることが多い(例えば、ある動物に触れるのは構わないが食べてはいけない、など)」。


 では、平安時代、否、鎌倉時代になっても事情は同じだったが、死者(死骸)はどのように扱われたのか。

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 例えば、浄土真宗の開祖である親鸞は、「それがし閉眼すれば、加茂川に入れて魚に遊ぶべし」といった言葉を残している。
 つまり、「自分が死んだら死体は加茂川に流して魚の餌にしろ」と言っているわけである。

 死体(死骸)は、野に、川に捨てるのが当たり前だったわけで、親鸞にしろ、自分だけを例外扱いされようとは思わなかったわけだろう。
 死体どころか、重篤な病に罹ったなら、貴族の館の従者でも、屋敷のそと、河原に放棄されたという。
 誰にも看取られることなく、死を迎えるしかなかったわけだ。
 死に瀕する人間が、一人自らが死の恐怖に面するしかなかったということか。

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鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた」とか。
 貴族(の関係者)であっても、河原などで獣のエサとなる当時の事情の例外ではなかったわけだ。

 
 当然ながら、墓場もなければ、墓石もあるはずもない。
(本書の帯には、「日本人は、いつから墓石を建てるようになったのか?」とあるように、本書は墓石についても、詳述してある。後日、機会を設けて書いてみたい。)

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 そこに、鎌倉時代、徐々にだが、特に遁世僧を中心に、弔いの儀に関わるものが登場してくる。
 浄土真宗に限らず、禅僧においても、意識の変化が生じてきた。
 前後して、「穢れ」についても、認識の変化が生じてきた。
「往生人に穢れ(死穢)なし」という発想の誕生、これが葬式の誕生に繋がったということだろう。
 これは、親鸞に連なる念仏僧に限ったことではない。
 天皇家の葬儀も遁世僧が引き受け始めたのである(「泉涌寺」は、その典型だろう。その前は、官僧が天皇家の葬儀に従事していた)。


 これは、小生の憶測に過ぎないが、死に瀕する人々への惻隠の情もあろうが、葬儀に関わることで、遁世僧の生きる術(すべ)が成り立ったとも考えられそうである。
 結果、いつの間にか、本来の仏教の営みを忘れ、堕落する僧侶も現れてくるわけである。


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→ 竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」 「帷子辻」とは、「京都市北西部にあったとされる場所」で、檀林皇后が自ら望んで打ち棄てられた地の名。「この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、ということを自ら示して人々の仏心を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した」という。

 では、僧侶は、本来の務めに専念すべきであり、葬儀に仏教(僧侶)が関わらないとして、死のあり方は如何にあるべきか。
 ここには、現代が抱える悩ましい問題がありそうである。

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