神色自若たる巨樹(前編)
まず、最初に凄みを感じたのは幹の太さもさることながら、根元の幹の捩れたゴツゴツ感だった。
そして、幹の表面を覆わんばかりの苔。
← 画像では、感じきれない、幹の太さ、そして年輪。風雪に耐えてきた、分厚いだろう樹皮。
小生(だけに限らないだろうが)は、木々や山(森)の緑に惹かれるが、それ以上に苔に惹かれる。
お寺志向は、日本人には珍しくはないだろう。
欧米で言えば、教会なのだろうし、アジアならやはりお寺は、一つの精神的スポットであって、そうした場にある種の求心力があるのは、それはそれでありがちなことに思ってよさそうである。
では、苔(寺)嗜好はどうだろう。
古びた寺や神社、手入れの行き届いた境内、掃き清められた庭、清掃されたお堂の内外。
いつだったか観たテレビで、あるお寺の住職が、住職の日々の仕事の大半は、お堂の清掃なのだと言っていた。
本尊やお堂を、廊下を備品を綺麗に掃除し磨き上げ、汚れを拭うこと、それ自体が修行なのだ、とも。
→ 視線を徐々に上げていくと幹が枝分かれ。しかし、どちらが幹なのか枝なのか分からない。共に枝?
一方、お寺(や神社)の境内の庭には、手入れの行き届いた樹木や草花と同時に、苔生す、落ち着いた、閑寂な雰囲気を求める。
風雪に耐えた建物でありながら、その内外は磨き抜かれ、その実、庭には苔、いい意味で色褪せた柱や天井や、数え切れないほど雑巾で磨かれてきただろう廊下。
古さと新しさ(というか、清潔さ)との絶妙のバランス。
← どれが幹なのか、枝なのか。そんな疑問など、ちっぽけ過ぎる?
古寺の苔生す庭を巡っては、以下のような雑想を綴ったことがある:
ただやはり、考えてみれば(考えるまでもなく)寺社の類いは信仰の場、宗教の場なのである。
その異境の場において自然がどんなに歪なもので人為の極を行くものであっても、人の手の関わりの気配や匂いをうまく消し去り、人の目に自然であり心を癒す雰囲気が漂い俗世を遠ざかっているふうに工夫されていればそれでいいのかもしれない。
自然が、動植物が信心するわけでも宗教心を抱くわけもないのだろうし、その意味で寺社の領域は、あるいは寺社で象徴されているものは、徹底して人為の世界そのものなのだし、人の感受性の上で<自然>と受けとめられるならそれでいいのだろう。
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