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2011/10/31

ニューヨークの振動(後編)

 思わず読む手が止まってしまったのは、本書の第12章「細胞膜のダイナミズム」の冒頭の「ニューヨークの振動」と題された一節である。

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← 福岡 伸一【著】『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書) 「生きているとはどういうことか―謎を解くカギはジグソーパズルにある!? 分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える」。本書についての感想は、たとえば、「生物と無生物のあいだ (内田樹の研究室)」が面白い。特に、「福岡先生がオズワルド・エイブリーとルドルフ・シェーンハイマーとロザリンド・フランクリンいう三人の「アンサング・ヒーロー」(unsung hero、すなわち「その栄誉を歌われることのない、不当にも世に知られていない英雄」)に捧げた本」という件は、同感である。実際、本書を読んでこれらの科学者への関心を掻き立てられた。

 節の題名が「ニューヨークの振動」とあったりするところに、本書の著者の書き手としての資質の一端を嗅ぎ取れるやもしれない。


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2011/10/30

ニューヨークの振動(前編)

 自然界における、「かたち」に潜む、数学や物理学などの法則を巡っての科学というのは、不思議であり且つ面白い。
 たとえば、イアン・ステュア-トの著作など、理科系には縁遠い小生にも分かりやすく、その世界に案内してくれて、何冊か読んできた。

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← フィリップ・ボール/著『かたち 自然が創り出す美しいパターン』(林大/訳  早川書房 ) 「自然のなかの目を見張る造形は数理法則にのっとってひとりでにできる。事物に潜むパターンの数理を、豊富なヴィジュアルを楽しみながら明かす3部作」の第一部。

 あるいはやや古くは、ルネ・ユイグ著の『かたちと力―原子からレンブラントへ』なども、挿画がたっぷりで、じっくり楽しませてもらった。
 動植物などの生き物の形や模様、風などで波や砂(浜)の描き出す形は、驚異そのものだ。

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2011/10/29

連休はへっぴり腰で(後編)

 持ち家率の項目では常連だが、富山県は今年も、で全国でトップで、81.5%!
(土地統計調査では、08年に、富山県は持ち家率トップの座から滑り落ちている。)

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→ 今日(28日)、ラティスを一枚、追加して設置。画像を見れば分かるように、ラティスの前に生垣が一本、出しゃばっている。前に迫り出しているので、仕方なく、ラティスを後ろに置いたのである。

 なのに…。
 富山県の人口は減少傾向にあり、とうとう110万人を切ってしまった。
 また、30~34歳の未婚率は男性が46.8%、女性が31.1%と、晩婚化が進んでいる。

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2011/10/28

連休はへっぴり腰で(前編)

 総務省が26日発表した2010年国勢調査の確定値によると、日本の総人口は横ばい。
 が、日本人の人口は初の減。
 これは、外国人の増加で、総人口が横ばいになったもの(平成17年から横ばいで推移)。

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← 両親の月命日のたび、仏壇に供える花と一緒に、玄関の花も生ける。生け花なんて、小生の信念(美意識や倫理観)に反するのだが、そこはそれ、である。龍の置物の背後は、造花。茶の間などに置きっ放しだったのを玄関に…。

 日本人の減少傾向が統計の上でも始まった、ということか:
統計局ホームページ-国勢調査からわかったこと

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2011/10/27

富山県の野菜生産は全国最下位の常連(後編)

 既出(北日本新聞の記事によると、富山県は、「耕地に占める水田の割合は2009年は96%で、全国平均の54%に比べると圧倒的に高い」という。
 それというのも、「水が豊富だという環境に加え、兼業農家が多く、手間が必要な野菜や果物を避け、米に特化していった経緯がある」のだ。

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→ 向井潤吉『宿雪の峡』([長野県下水内郡秋山郷] 1983年) 「世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館」 (詳しくは、「陋屋 茅屋 廃屋 古民家」参照のこと) もうすぐ、冬。雪の季節。つらいなー。

 今まではこれでよかった。
 しかし、「米の消費が減り、価格も下がった」し、「生産調整の強化によって稲作できる面積も制限される」という「二つの要因が絡んで農家の所得は減る一方」だ。

 そこで、「県やJAは野菜や果物、花きといった園芸作物に目を付けた」というわけである。


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2011/10/26

富山県の野菜生産は全国最下位の常連(前編)

 10月23日付けの北日本新聞を(24日になって)読んでいたら、「データとやま」という大きな欄での特集があって、「富山県は野菜の産出額が27年間、国内最下位」という冒頭の文句が目に飛び込んできた。
 理由として、全国有数の「米どころ」である、などというが、どうも納得のゆく説明に思えない(理屈付けに思える)。

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← 我が家は築約60年。空襲で燃える前の家は、かくのようなものだった? (画像は、「田中良平…板塀の温みを描く」参照)

 そんな中、「米価の下落や生産調整の強化が進む中、農家の経営安定の鍵を握るのが野菜などの生産」ということで、「県は「1億円産地づくり支援事業」を展開し、各JAの取り組みを後押しする」と、記事の冒頭で謳われている。

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2011/10/25

ゲロッパされちゃいました!

 ゲロッパ! なんてタイトルにしたけど、別に、ジェームス・ブラウンのこととか、あるいは8年ほど前に公開された映画『ゲロッパ ! ( Get Up !)』を話題の俎上に載せようってわけではない

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← お客さんを下ろした先で、料金や時間・場所などの記録を日報に書いていたら、近くに小鳥たちの姿が。しきりにエサを探しているようで、小生のことなど無視!

 実は、尾篭にも、ゲロを話題にしようというのである。

 別に好き好んでゲロに焦点を合わせようってわけじゃない。
 実は、過日、とうとうお客さんにゲロ(!)を車内で吐かれてしまったのである。

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2011/10/24

我が家の庭はススキの野に…(後編)

 こうした自身による評釈を読むたび思うのだが、句を嗜まれる方は、人の句であれ自分の句に対してであれ、短文での解説の如何が非常に重要のようだ。
 簡潔な解説の中に凝縮された情報が篭められ、同時に独自な視点と観察に裏打ちされ、且つ、読むに味わい深くないといけないのである。

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→ こんなに地味な外観の植物もあまりないだろう。だけど、なぜか惹かれてならない風情がある。

 句だけをポンと出されるのも小気味いいが、句と短文のコラボも楽しいものだ。そこに俳画のような絵などが水彩か墨でサッと描かれて添えられていたら、もう、成功は間違いない。
 成功とは何かが問題かもしれないが、とりあえずの注目は期待できる。小生にとっても句を詠んでもらうためにも、練れた文章表現は課題の一つである。

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2011/10/23

我が家の庭はススキの野に…(前編)

 9月の季語例の中に、まさに表題にある如く、「すすき」がある。ということで、今日は「すすき」に触れてみる。

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→ 今秋になって、なぜか我が家の庭にススキが…。しかも、数箇所に。我が家の行く先を占うがごとく…? それとも、ススキじゃない?

花の句と写真」によると、「芒(すすき)は薄とも書き、花芒・尾花・鬼芒・糸芒とも呼ばれています」とあって、「すすき」の画像も見ることが出来る。

 以前、特集した「エノコロ」は、何処か愛らしさが感じられたが、「すすき」となると、ひたすらに侘しさ、寂しさの感が漂ってくる。

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2011/10/22

富山(南砺市)と南相馬市…相馬二遍返し

 過日、「江戸時代に現在の南砺市から大勢の農民が渡った歴史がある福島県南相馬市で開かれる移民200年交流会」が催された(といったニュースをテレビで最近見た)。

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 その交流会では、踊りや「相馬二遍返し(そうまにへんがえし)」という民謡が披露された:
ピアノで織りなす福島県民謡「相馬二遍返し」 Rikiya Life is Now/ピアニスト・中村力哉のブログ

 この民謡(唄)は、「天保の大飢饉で3分の2の人口を失った相馬藩が移民奨励策としてこの唄を用い、大いに相馬の楽土たることを喧伝したことにはじまるといい(岩波版)、この唄の趣旨に関連したものと考」えられている。

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2011/10/21

神色自若たる巨樹(後編)

 そもそも苔が生えている、しかも、それをよしとするような精神的スポットは、日本以外のアジアや欧米では、普通に見られるものなのか、それとも、日本だけの特殊な嗜好なのか。

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→ 枝(?)の一本を見つめてみる。風に折れ曲がった幹…と言われても、納得するかもしれない。苔生して…。

 苔というと、数年前、本ブログの中でも、こだわってあれこれ書いてみたことがある
 その中で、苔は下手すると、黴(かび)や錆(さび)と同列視されかねない存在、なのに、何故、人は(日本人は)惹かれるのか、などなど書き綴っている。

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2011/10/20

神色自若たる巨樹(前編)

 過日、休憩しようと松川沿いの一角に車を止めた。
 車中での休憩だけでは体が鈍(なま)りそうと、ドアを開けて、のびをしようと思った。
 すると、いきなりでっかい樹木が目に飛び込んできた。

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→ 最初に凄みを感じたのは幹の太さもさることながら、根元の幹の捩れたゴツゴツ感だった。

 今までだって、そこで一服したことはあったのだが、そのときほどその木の存在感に威圧されることはなかった。

 何に畏怖したのか。
 樹木の大きさ、幹の太さ、枝葉の見事さ、そう、枝っぷり、そして幹や枝の表面の苔…。
 その全てに圧倒された、としか言いようがない。

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2011/10/19

ナボコフの魔術的描写(後編)

 彼のこうした(小説家としては異色な)経歴(や実績、それとも資質か)は、彼の創作にも強く影を落としている。

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← 「クジャクチョウ」(タテハチョウ(立羽蝶)科) 特徴的な保護色(の意味での擬態)の事例として、しばしば取り上げられるチョウの一種。(画像は、「タテハチョウ - Wikipedia」より)

今週の本棚:井波律子・評 『ナボコフ全短篇』=ウラジーミル・ナボコフ著」(毎日jp(毎日新聞))の書評を参照させてもらう。

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2011/10/18

ナボコフの魔術的描写(前編)

 過日より、フィリップ・ボール著の『かたち 自然が創り出す美しいパターン』(林大訳 早川書房)を読み始めている。
「自然のなかの目を見張る造形は数理法則にのっとってひとりでにできる。事物に潜むパターンの数理を、豊富なヴィジュアルを楽しみながら明かす3部作」の第一作である。

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→ 実りの秋。

 原題が『Shapes(かたち)』と素っ気無いが、中身は濃厚である。

 自然の中に現れる模様や形などの造形は、勝手気ままに現出するわけじゃなく、一定の数理法則に則って出来上がる。

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2011/10/17

我が町・我が家のこと(3)

 お地蔵様についてはともかく、観音堂の由来は、十三日に住職に話を聞いたことで、ある程度、知ることが出来た。
 もともとは、我が町の成り立ちとも関係する。

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← 御堂の中の様子を格子の透き間から撮影してみた。安置してある像はといえば、確かに観音様たちである。

 わが町を含め、近隣一体は、赤祖父家という、江戸時代、富山藩の家老に抜擢された地元の実力者の領地だった。
 赤祖父家いつの世からか、広い領地(農地)を持っていた。

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2011/10/16

我が町・我が家のこと(2)

 その住職さんとは、お勤めの後、お喋りに興じるのが常である。
 それこそ、近所や近隣、親戚などの近況(情報)交換だったりは、当然として、政治から宗教、歴史、本などなど話題は多岐に渡る(要は、小生の雑談に応じてくださるわけである。一人暮らしの小生のことを気遣ってのことでもある)。
 その中で、小生の問いに答えてくれる形で、いろんなことを知った。

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→ 夏の間…どころか、十月の声を聞く頃まで実を恵んでくれていたゴーヤも、さすがに勢いをなくしつつある。長く花を楽しませてくれていたマンデビラも、気のせいか、花の生気にやや翳りが兆し始めたような気がする。

 その全てを書くのは、箇条書きにするだけでも相当に長くなってしまう。
 雑談は、一時間半ほどだったのだが、広く浅く、次から次へと話題が移っていったのだ(お坊さんは知恵者だし、物知りでもある。凄い読書家でもある)。


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2011/10/15

我が町・我が家のこと(1)

 昨夕辺りから、久々の雨。
 一週間以上、晴天が続いただけに、人間にとってもだが、植物(他の生物)にとって、待望の雨なのかもしれない。
 ただ、夜に入って、突風を伴う強風が吹き荒れてきた。
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← 「杜鵑草 (ほととぎす)」の花が今秋も咲いてくれている

 ちょうどそんな時に、仕事で神通川沿いの土手を走っていて、強風に煽られて、車線をはみ出しそうで、ハンドルを持つ手につい、力が入ってしまった。

 特に対向車と擦れ違うとき、一番、緊張感が高まる。

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2011/10/14

ドクダミの野がコスモス畑に(後編)

 後始末に困ったヒマワリ。
 挙句、そのドクダミの野にすっかり変色したヒマワリの花(種付き!)や幹そのまま、放置してしまった。

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→ 数年前までは、田圃だったのだが、こうなったら、コスモスとヒマワリの野にするしかない。台風の余波の強風などで、八月末に大半が根こそぎやられたにも関わらず、しぶとく生き延びてくれた。一瞬だが、雑草の蔓延る我が家の庭にも植えるかとも考えたが、他の植物を圧倒しそうなので、自制する。外来植物なのだし

 そのヒマワリの残骸は、翌年は、そのままだった。
 翌年、つまり、昨年は、父母らのことで手一杯で、庭も畑も、世話など論外だった。

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2011/10/13

ドクダミの野がコスモス畑に(前編)

 我が家の庭先にある、借地である畑。
 ほとんど全く、手をつけてこなかったので、荒地になっていて、数年前からはドクダミの野に成り果てていた。
 何年か前までは、父(母)が世話する…はずだったのだが、とうとう手を加える前に父は畑からも庭からも手を引いてしまった。

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→ 悪戦苦闘(?)の果てに育ってきたコスモス、今が盛り。

 3年余り前に帰郷した小生がせめて、多少なりとも世話すればよかったのだが、そもそも、その土地の性格が理解できていなかった。

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2011/10/12

『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(後編)

 そもそも、わたしの世界の空高くには、夜には月や星があり、昼には太陽がある。
 昼間の空の世界には雲があり、雨が降り、風が吹く。
 風は一体、何処から吹いてくるのだ?

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← リサ・ランドール著『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』(向山信治/監訳 塩原通緒/訳、日本放送出版協会) 刊行された4年前には、ほとんどSF小説を読むような感覚で読んでいたが、今や、この飛んでる宇宙理論が現実味を帯び始めてきた。村山斉著の『宇宙は本当にひとつなのか』の中でも、暗黒物質を説明する有力な理論(候補)の一つとして言及されている。(

 谷間の向こうから?
 山の彼方から?
 海の向こうから?
 それとも、姿を見せない闇の支配者の気まぐれな吐息?

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2011/10/11

『宇宙は本当にひとつなのか』の周辺(前編)

「宇宙」は、コスモスなのかカオスなのか。
 時代と共に、あるいはその人(々)の人生観の変貌に連れて、変化する。

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→ 我が家の庭には、今、咲いている花は少ない。これは庭の野草! 

 秩序を希(こいねが)うのが人類の性(さが)なのか、秩序だって居ないと生きることが余りに困難だからか、カオスの様相を呈する困難な状況にあっても人は、秩序や規則性や、あるいはさらに、どうやっても人の理解を超える闇の世界(としか思えない中)にあっては、天の意思(意図)めいたものを見出そうとしてきた。

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2011/10/10

梅原猛著『葬られた王朝』を読んで(後編)

 それはそれとして、本書において、梅原猛は、過去の自説を間違いだったと率直に書かれている

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→ 梅原 猛著『神々の流竄』(集英社文庫) 「大和から出雲へ神々は流され、幽閉された!“出雲・神々の故郷説”に疑問の矢を投じ、その裏に秘められた古代の権力と宗教との壮絶な争いをとらえ、鋭い推理で歴史の真理に迫る」といった本。後に、本書での主張の一部を撤回・訂正することになる。

 梅原猛は、同氏著の『神々の流竄』において、「出雲神話は大和神話を出雲に仮託したもの」と主張していたのである。
「出雲」という国や勢力が実在したわけではない」とも。

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2011/10/09

梅原猛著『葬られた王朝』を読んで(前編)

 梅原猛著の『葬られた王朝』(新潮社)を読了した。
 小生は、三十代の半ば頃から、宇宙論と同時に、なぜか古代史や考古学に関心を抱くようになった。
 それも、主に日本の古代史関連。

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→ 「遮光器土偶・亀ヶ岡遺跡出土」 (画像は、「土偶 - Wikipedia」より) 「最古のビーナス像発見のニュースに関連して」を参照するもよし。

 子供の頃や若い頃は、エジプトのピラミッドやインカ帝国など、世界の考古学や有史以前の話題に興味津々だったものだ。
 今も、そういった世界の歴史には関心が薄らいだわけではないが、やはり、関心の焦点は日本に向かっている。

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2011/10/08

「葬式仏教の誕生」をめぐって(後編)

 ちなみに、若い頃、父は小生に出家すればと示唆したことがあった。
 実際、近い親族に出家した人がいる。

 さて、本書を読んで、やはり、印象的だったのは、「葬式仏教」の誕生した歴史的経緯である。

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 日本への仏教伝来以来、奈良などの仏教は、「国家加護という至上命題があった」。
「当時の僧侶は、鎮護国家の祈祷のために国に雇われた官僚だった」わけである。
 そうした「官僧たちは、いわば官僚的な存在であって、清浄であることを求められ、死穢などの穢れを忌避していた。それゆえ、死穢を不可避とする葬式に関与した場合、一定期間は鎮護国家の法会に参加できず、神事に関わるのを憚らざるを得ないなど種々の制約があった」のである。

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2011/10/07

「葬式仏教の誕生」をめぐって(前編)

 帰郷して、自身の生活で変化したことは多々ある。
 父母が亡くなったことで、家の当主(世帯主)になったこと、当然ながら、家の内外のことに自ら関わる必要に迫られている。
 葬儀も喪主としての役目を果たすことになったことは昨年の日記にも書いた。

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← 松尾 剛次【著】『葬式仏教の誕生』(副題:「中世の仏教革命」 平凡社新書) 日本では中世まで、亡くなった人は、河原や浜、道路わきの溝などに捨てられていた。死は穢れとして、忌み避けられていたからだ。そんななか、人々が弔いを託したのが仏教である。葬式と、墓石を建てる習俗の起源を探りながら、日本人が仏教に求めたことと、仏教が果たした意義を探る」といった本。

 極力、最小限の関わりに止めているが、町内会のことにも、多少なりとも関心を抱かざるを得ない。

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2011/10/06

桃山時代の能

 金曜日の未明だったかNHKのラジオ(第一放送)で、桃山時代の能の復元ということでどなたかが(名前は失念した)アナウンサーの問いに答える形で語っておられた。
 小生は能を舞台で見たことはない。せいぜいテレビで断片的に垣間見ただけだ。

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← 過日、所用があって富山市の中心部にあるデパートへ。というより、デパートの中にある書店へ。その帰り、買い物もあったので、遠回りして川見物。市内の随所で曼珠沙華(彼岸花)を見ることができる。「曼珠沙華」は、「天上の花」の意。

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 あとは、時代劇の中で武士たちが能舞台を見る場面などは幾度となく見る機会はあった。特に織田信長などは(彼に限らないが)自ら能を舞ったようだし、一つのエピソードとして「絵」になることもあってか、しばしば信長が舞う場面は撮られてきた。有能だが無骨な半面、幽玄なる能に興じる信長像というわけである。

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2011/10/05

北アルプス立山で人が感じない地震相次ぐ!

 昨夜、ラジオ(NHK第一)で気になるニュースを聞きかじった。
「東日本大震災の後、北アルプスの富山県と長野県の県境一帯を震源とする、 人が揺れをほとんど感じない地震が断続的に発生」という趣旨のものだったよう。
 だが、仕事中だったし、ラジオ放送を運転の傍ら聞いていただけなので、詳細が分からない。

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→ 鳳仙花、だろうか。この春、鳳仙花の種を畑に蒔いたが、咲いたのは一輪だけ。秋口になって、それも畑の畝(うね)を外れた隅っこにポツンと一輪、咲き始めた。花の咲く前、雑草と間違えて慌てて毟ったりしなくてよかった。

 今朝の地元(富山)のテレビ(ニュース)を見続けていたが、関連の報道は一切ない。
 テレビで敢えて放送しないってことは、まだ、重要度(緊急性)が低いからなのか、他に伝えるべきニュースが多いからなのか。

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2011/10/04

児童画のこと(後編)

 町中で見かけた児童画を見て驚いたというか、感動したことがある。
(返す返すも、その(小生の目を惹きつけて止まなかった絵を撮影しなかったことが悔やまれる。)

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← 裏庭の片隅にひっそりと置かれている大きな甕。今はもう、小さな蓮池となっている。春には花も一輪、咲いたけど、今は葉っぱだけが水面に漂っている。

 当該の文章の行方は分からなくなったので、関連する一文(の一部)を転記しておく:

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2011/10/03

児童画のこと(前編)

 子供の頃は、誰でも、あるいは多くの方は悪戯に、気侭に絵を描いていた。絵だとは思わず、衝動で、与えられた、あるいはそこらに転がっている鉛筆や色鉛筆、筆、その他で新聞紙や広告、壁などに落書きしていたのではなかろうか。

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→ 庭を見て回っていたら、裏庭の藪同然となっている一角に、それこそ密生する枝や葉っぱの陰に隠れるようにして、何かの実が生っているのを発見。一体、正体は何? そういえば、昨年は全く生らなかったミカンだが、今日、実が一個、生っているのに気づいた。まだ濃い緑色。今年は少しは収穫が期待できる?

 さて、その児童画だが、本書(谷川晃一著『絵はだれでも描ける』)にもあるように、小学校などで美術のイロハを習ったり、そうでなくても、長じるにつれて社会常識を学ぶに従い、児童の頃の自由奔放な絵の面影は消滅していき、型通りの、常識に囚われた、技術や様式の習得度などで点数の計られるような類いの絵に変貌していく。

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2011/10/02

真冬の夜の月

 仕事柄の賜物というべきか、夜の空とたっぷり付き合えるのが嬉しい。古来より美しいものとして和歌にも歌われてきた雪月花。その三つを味わえるのが1月の中旬頃から今ごろなのではなかろうか。

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← 画像は、「月の魔力?」より。

 月は別に満月である必要はない。が、満月の凄みは格別なものがある。まして、冬の月となると、何か徒事ではないような気分にさせてしまう。一月の満月は月初めの頃で(八日だったと思う)、まだ、その頃は梅も蕾だったはずである。

 というより、公園の脇で休憩していても、梅の木の傍にいることさえも全く気付いていなかった。

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2011/10/01

またもや奇妙な夢を見た(後編)

 目覚めたのは、その瞬間だった。
 痛みの感覚は、夢の中でも、目覚めてからも全く感じなかった。

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← 今日30日のゴーヤの様子。大分、育つ勢いが弱まってきた。実も、夏場は30センチに及ぼうとするものだったのが、今は20センチにも達しないうちに黄色く変色してしまう。陽気が寒くなってきたから? それとも、肥料を何も与えていないからか。今夜もゴーヤチャンプル定食と相成った。

 無論、小生が目覚めた際、血ではなく、実はオネショで腰の周辺がしとどに濡れていた…なんて、見え透いたオチに繋がるわけもない。

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