死海文書と陰謀説と(1)
世の中に曰く、ユダヤ陰謀説、フリーメイソン、etc.と、陰謀説のタネは尽きないようである。なぜにそんな陰謀説の類いというのは人気があるのだろうか。また、隠然と語り継がれたりするのだろうか。
← 「死海文書」画像。 「死海文書5巻をネットで公開 グーグルで検索・翻訳が可能に」といったニュースを今朝未明(28日未明)、知った。せっかくなので、関連の旧稿をブログにアップする。
新しいところでは、かの9・11同時多発テロの際、世界貿易センタービルがテロリストに乗っ取られた旅客機の直撃を受けたとき、同センタービルで働いていたユダヤ人4,000人が、直前にいなくなっていた。もしかしたら、このテロは、ユダヤ人によってテロリストたるアラブ人に対する悪感情を掻き立てる為に仕組まれた陰謀なのではないか云々。
無論、これは完全なデマで、実際にはユダヤ人の方も数百人という多くの方が犠牲になられている。
が、こうした陰謀説を信じたくなるような感情、感情を醸成する土壌があるのだろうとは推測できる。
余談だけれど、近年特に日本では(若い)女性を中心にダイエットがブームである。太っていることは悪であるかのように、毛嫌いされ、ひたすら痩せた体を目指して励む。
これって、自分が持てなかったり仕事が出来なかったりするのは、本人の(女性の)性格というか人間性がホントは陶冶されなければならないのに、それは非常に困難だから、悪いのは脂肪のせいだ、顔が浮腫んでいるせいだと、責任を転嫁していることに他ならない。
脂肪のせいにしておけば、自分の努力の至らなさが問われずに済む、自分の人間性への深刻な疑義に踏み込まなくて済むわけで、安易と言えば安易だ。でも、脂肪などのせいにしておいたほうが、当人も楽だし、エステを含めた業界も潤うというわけだ。
ということは、痩身願望、太った体型忌避志向というのは、エステやダイエット食品業界の陰謀の結果なのではないか、なんて、思ったり。
無論、これまた小生の憶測というより、邪推に過ぎない。陰謀説というのは、世界を理解するのに便利な道具なのだと思う。自分だけが本当の事情を知っていると思えるわけだし、また、世界を明快な構図で理解できる。
混沌とした世界、しかも多くの事件の真相というのは、ほとんどが藪の中に消えていく。ケネディの暗殺の真実はいつか明らかになるのだろうか。できれば、自分だけは誰よりも早く知りたい。そんな欲求は誰しも持つのではないか。テレサ・テンの死の真相は如何。ああ、知りたい! アルカイダって、イラクやサウジアラビアよりアメリカかイスラエルの何かの組織と親しいんじゃないの。帝銀事件や下山事件の真犯人は誰。ああ、知りたい! 云々。
→ 富山市を流れる神通川。過日、営業中だった小生、その川に沿うように走り、富山湾(岩瀬)へ至る運河沿いで一服。沈み行く夕日に心を和ませる。
さて、本題に入ろう。
小生は、昔、「死海文書の謎」という俗説に囚われていたことがある。死海文書(写本)というのは、『広辞苑』によれば、「1947年以来数回にわたって死海北岸クムランその他の洞窟から発見された古写本。紀元前125‐後68年の、イザヤ書などの旧約聖書やエッセネ派に関する文書の断片を含む」である。発見された場所にちなんで、クムラン文書と呼ばれることもある。
これらの文書は、「今世紀最大の考古学的発見と言われながら、すでに半世紀にわたって全面公開が阻まれ」続けた。何故、このような重大で貴重な文書の公開が長く阻まれてきたのか、そこには何か「謎」があるのではないか。
1991年に未公開だった「死海文書」関連のすべての写真が公開され、すべてのそれらのコピーが入手可能になったこともあり、「死海文書の謎」に隠された秘密を巡る本が様々に刊行されてきたのである。
小生は、タイトルも『死海文書の謎』(マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著、高尾利数訳、柏書房刊)という本を早速、刊行された92年に購入し読み耽ったものである。
さらには、図書館で、翌93年に刊行されたバーバラ・スィーリング著の『イエスのミステリー』(NHK出版刊)を94年の春だったかに、読んだものだった。
言うまでもなく、キリスト教というのは、イスラム教同様にユダヤ教から分離独立した宗教である。そのようには認めたくない向きもあるかもしれないが、歴史的には否定しようがない。キリスト教での『聖書』を『新約聖書』と『旧約聖書』の二つを併せて総称したものである。
が、ユダヤ教にしてみれば、それはとんでもないことで、『聖書』といえば、『(旧約)聖書』のみを指し(無論、カッコ内の注も不要だ)、キリストというのは、偉大な預言者の一人に過ぎない。つまり、キリストというよりイエスと呼ぶべきなのだろう。
『コーラン』を聖典とするイスラム教徒にとっても『(旧約)聖書』は聖典であることに変わりはない。また、イスラム教徒にとってもイエスは偉大な預言者として扱われている。
それゆえ、『(旧約)聖書』の中の「創世記」から「申命記」までのモーセの律法と同時に、新約聖書の四つの福音書をもキリストの福音として尊重する。但し、ユダヤ教でもイスラム教でもイエスはキリスト教のように神の子としては見なされていないのである。
というか、繰り返しになるが、イエスが神の子であり十字架の刑に処せられて死んだが、蘇った、つまり神の子イエス・キリストなのだと信じることからキリスト教が生れたのだ(あまりに単純な説明で申し訳ない)。
つまりは、いずれにしても、イエス・キリストを如何なる人物として理解するかが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を決定的に分けるポイントだと言えるということだ。
← 朝晩は20度を下回るほどに涼しい…というより寒いくらい。でも、日中は陽光が厳しい。我が家の庭で、束の間の温みを求めて、トカゲたちが日向ぼっこする姿を随所で見かけた。
さて、「死海文書(写本)」である。こうした問題があるからこそ、この極めて重要な考古学的発見が半世紀にもわたって公表されなかったのは何故か、と疑問になるのだ。
きっと、何か既成の常識を覆すようなとんでもない<真実>が潜んでいるのだ。その真実が露見しては困るのだ。だから、発見から半世紀も経過するのに、未だに研究の成果が秘せられている。ほんの一握りの学者連中が頑なに公開を拒むのも、イエス・キリストの正体を探る上での何か決定的な証拠が見つかったからなのではないか…。
ということで、陰謀説めいた本が現れるわけだ。イエス・キリストをどう理解するか、これはキリスト教などの文化圏からは幾分、距離を置く我々には想像も付かないほどの、キリスト教徒・ユダヤ教徒らの関心事である。信仰の根幹に関わるといってもいい。
一体、キリストは磔(はりつけ)にされたのか、十字架の上で槍で刺されて死んだのか、死んだ後、蘇ったというのは本当なのか、蘇ったとして、それはキリストが神の子だったからなのか、それとも、たまたま槍で刺され、虫の息の状態にまで陥ったけれど、完全には死にきっておらず、何処かの洞窟か隠れ場所に信徒(弟子)らによって匿われ、十字架の刑の後も密かに生き延びていたのか。
先に、日本はキリスト教文化圏からは外れると書いたが、しかし、キリスト教との関わりは決して浅いわけではない。幕末・明治以降だけでも150年になるが、その前に戦国時代にイエズス会の連中がやってきているし、さらに、遡って、ネストリウス派キリスト教が中国に伝わって景教と呼ばれたことは知られている。当然の如く、日本の光明皇后の時代に伝わっていたと云われている。
そこまで遡行するのは、行きすぎだろうが、特に戦後はアメリカなどの影響で、キリスト教文化に親しみを持つようになっている。近年はクリスマスにバレンタインデーにと、換骨奪胎して(和魂洋才の精神は今日も生きている?!)、キリスト教(決して、正確な、あるいは真面目な理解に基づくものではないかもしれないが)が日本の土壌に浸透しているともいえるかもしれない。
少なくとも十字架で磔にされたキリストとか、蘇ったキリストとか、処女マリア(処女受胎)とか(原語では若い娘のはずなのに、キリスト教では処女マリアと解されている)、初めて聞いたら目を剥くような<奇跡>の類いに驚きを感じることは少ない。
もう、十分過ぎるほどにキリスト教へのシンパシーは持っているのかもしれない(少なくともイスラム教よりは、遥かに!)。
さて、『死海文書の謎』の著者らが示す論は、日本語版序文に明らかにされている。曰く、「初代キリスト教やイエスは、当時すでに存在していたユダヤ教の伝統から生じてきたもの」「イエスおよび彼のメッセージには何もユニークなものはない」つまり、「死海文書」が示す「イエス像」というのは、「キリスト教の諸文書が描いてきた<子羊のような救世主>ではなく、戦闘的でナショナリスティックな革命家、「自由の闘士」のそれである」云々。
つまりは、「メシア主義的なユダヤ教と初代キリスト教との類似性が最後決定的に証明された」というのである。
キリストも磔の刑のあと、生き延びていたに過ぎない、それを後世、キリストが蘇ったと文字通り神話化したに過ぎない。キリストの語った説など、何も目新しいものなどないのだ…。一体、<イエス>とは、<パウロ>とは何者なのか、その秘密が今、明らかにされる…というわけである。
→ ルーシー・マドックス (著)『リムーヴァルズ 先住民と十九世紀アメリカ作家たち』(丹羽 隆昭 (監訳) 開文社出版) 一昨日、読了。自由と民主の国・アメリカが成り立つためには、都合の悪い過去…インディアン虐殺の事実は、徹底して忘れる必要があった。彼らは人間ではないから、殺しても罪の意識に囚われる必要はない、だって。委細は、拙稿「『リムーヴァルズ 先住民と十九世紀アメリカ作家たち』を読む(前編)」などにて。
ああ、小生は、この秘密の暴露めいた話に夢中になってしまったのだ。学問的批判の能のない人間の悲しさである。一部の研究者の俗説に反論のしようがない。真に受けてしまうしかないのだ。そして、きっと、キリスト教を根底から覆すに違いない説に今、遭遇している、今に、世界的な大問題になるに違いない…云々。
そんな小生の短絡的な思考や理解を罰するかのように、93年だったか94年の春に、図書館でバーバラ・スィーリング著の『イエスのミステリー』を読んだ。その直前に、小生は会社をリストラされていたのだった。
リストラされた小生を心配して未だ寒気の抜けきらない3月の或る日、友人が彼の家に招待してくれた。けれど、小生は凝りもしないでこの説に夢中になっていて、彼の家の台所のテーブルに向いながら、受け売りの説をとうとうと語ったものだった。
友人は小生よりも知性的で冷静な方なので、小生がまたバカなことをお披露目に来たと、顔ではウンウンと、でも、今、思えば冷ややかに聞き流していたものだった。リストラされたばかりの小生だから、この際、下手に反論などしないでおこうという優しさだったのだろう。
小生、これでも、多少は敏感なところもある。友人にこの俗説をさも凄い真実を知っているかのように語りながら、まてよ、真実ってこんなに簡単に知れるはずないぞ、と思われてきたのだった。
そこに、真打登場の如くに現れたのが、本書・田川建三氏著『書物としての新約聖書』である。
(略)
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