シルクの海
誘われるがままに、部屋に行き、誘われるがままに絹の海を泳いでいたのだ。暖かな綿の海。柔らかな白いシーツの波間。滴る汗。歓喜の声。オレの目一杯の愛撫にもあまるあいつ。あいつの白い体が今も、鮮やか過ぎるほどに脳裏に浮かぶ。
いや、確かにそこにあいつがいると思えてならない。そこで笑み、そこで怒り、そこで泣き、そこで快楽に身を持て余し、涎と愛の香りとがベットリと二人の宇宙を満たしている…。
けれど、あいつは、オレ以外の数知れない男達とも愛を交歓していた。決してあばずれなんかじゃないのに、出会う男の全てに純粋な愛と肉体を捧げていた。愛とは、瞬間の煌き。絶えざる絶望。林立するポールの上の無数の海鼠。
オレは、空白を埋めようとした。
一体、オレはあいつの何を愛していたのだろう。オレの全てをあいつに賭けた。世界があいつ一色となった。世界はあいつと出会ってから、色を変えた。さらさらの粉のような時空が、ピンと張り詰めた舞台になった。二人だけにスポットライトが当る特別な舞台だ。
なのに、その全てが消え去った。何が消え果たのか分からないほどに、世界は茫漠とした砂の原となった。吐きそうなくらいだった。体を裏返しにしてでも、オレの胸の悲しみを引き裂きたかった。
あいつが消えた。それも他の男のもとに消えたんじゃない。あいつ一人の世界を作り上げてしまったのだ。オレも、男の誰彼も必要じゃない世界にあいつ一人が居着いてしまった。もう、あいつの眼中には誰もいない。オレの心どころか、オレの肉体さえ、要らないという。
空っぽだった。何もない世界。森閑とした都会。雑踏の只中の耳をつんざくほどの沈黙。
高周波音がオレの鼓膜をビリビリと引き裂いている。肉が真っ暗なのか、それとも血が滴って真っ赤なのか判別できない遠い世界に引っ張られていく。上とも下とも右とも左とも付かない闇の宇宙の穴に引きずり込まれていく。
世界の穴を埋めなければならない。
世界の傷を覆わなければならない。世界のデコボコをオールオーバーに塗り尽くさないといけない。壁という壁を肉襞の底から染み出す膿で癒さなければならない。悲しみを沈黙と無関心とで塗り替えなければならない。存在の無は過去のものにしなければならないのだ。
オレは遠い世界の無言の声に耳を傾けた。聞こえるはずのない魂の喚きを聴き取ろうとした。
エアスプレーのノズルをこれ以上にないほどに絞って、塗料を何処とも知れない闇の焦点を狙って吹き付けた。あるいは、ノズルを全開にして、靄とも霧とも付かないシルクの海に世界を浸そうとした。
けれど、あらゆる営みにオレはしくじった。オレは無能なのだと思い知らされたのだ。殻が破れ、ブヨブヨな身が手術台の脇のトレイから垂れ落ちていった。
(「路上小風景(4)」(03/11/12 作)より抜粋)
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