中島敦から土方久功へ(後編)
→ 土方久功「クロトンの娘」1972年、世田谷美術館蔵 (画像は、「委任統治領ミクロネシアを訪れた美術家の作品展-国際版画美術館 - 町田経済新聞」より)
中島敦との関係で、土方久功の来歴を見ると:
1929年(昭和4年)、パラオに渡り、公学校(現地住民の初等教育学校)の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する。1931年(昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島(現在のサタワル島)に渡り、7年間を同島で過ごす。1939年(昭和14年)、パラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務する。トラック諸島(現在のチューク諸島)、ポナペ島(現在のポンペイ島)、クサイ島(現在のコスラエ島)、ヤルート(現在のジャルート環礁)、サイパン島、ロタ島を引き続き調査する。1942年(昭和17年)、小説家の中島敦とともに帰国した。同年、ボルネオ調査団に参加し、同年から日本が統治した北ボルネオを調査した。
そう、土方久功には、南洋(パラオ)時代の中島敦との交流があるわけである。
← 土方久功「 」(題名不詳) 生憎、川村湊著の『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』の中で見出した、ゴーギャンを髣髴させる絵は、ネットでは見つけられなかった。(画像は、「家づくり西方設計 土方久功」より)
実際、調べてみたら、「企画展 - 世田谷美術館 パラオ−ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功」が催されたこともあるのだ(土方の絵を見て、日本のゴーギャンを直感した小生だが、まんざらでもないわけである)。
→ 土方久功「 」(題名不詳) (画像は、「高知ゆかりの彫刻家 土方久功展」より)
その「企画展 - 世田谷美術館 パラオ−ふたつの人生」によると:
中島敦と土方久功、二人が出会ったのは1941年7月、ミクロネシア諸島のパラオでした。日本が南洋政策を進めていたさなかのことです。土方は1929年からパラオで絵画、彫刻の制作を重ね、また民俗資料、民話、言語などの研究も進めていました。いっぽう中島は横浜高等女学校を退職し、パラオ南洋庁の国語編集書記として諸島に渡り、ほどなく二人は行動を共にし、交友を深めました。中島の晩年作はパラオでの体験が色濃く反映しており、その背景には土方との交流があるといわれています。本展では土方の絵画、木彫レリーフ。中島の著作とさまざまな関係資料をご紹介します。独自の視点を通じ、美の在りよう、そして人間精神の在りどころを深く求めた二人の足跡をお楽しみください。
← 「パラオのコロールにおかれた南洋庁庁舎」 (画像は、「土方久功 - Wikipedia」より) 土方久功も中島敦も、この庁舎を何度も行き来したことだろう。
中島の南洋行は、いい空気を求めての療養の旅だったはずだが、冷房などあるはずもなく、暑さにまいり、風土病に冒されたりして、結果的には命を縮めることになったかもしれない。
けれど、彼の晩年(!)の文学には、資するものがあったとは言えるのかもしれない。
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