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2011/08/14

セミ時雨の夏、おしょらいの夏(前編)

 13日の土曜日は営業で富山市の市街地を中心に走り回っていた。
 土曜日だし、その上、お盆なのに、やや人の出が多い。

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→ 庭先の畑のコスモスたちも、一斉に開花。
 
 そうではなくて、お盆だから人が多くなっているのだ。
 富山は、お盆ともなると、日ごろは東京などへ出ている人が一時的に帰省している、だから、普段より人が多くなるわけである。

 13日の土曜日の夜など、富山に帰省した若者たちが、街中に繰り出してきたりして、富山にこんなに若者がいたっけと、驚かされるほどだった。

 さて、お盆で、お墓参りする人も、(ラジオなどによると)相当にあったようだ。
 お墓参りとか、お盆を、夕方になって実感するようになった。
 というのも、夕方になって、市街地の川べりを走ると、橋の上や土手沿いの道で、「おしょらい」をやっている人の影をかなり見かけるようになったからである。
「おしょらい」については、拙ブログでも、思い出を絡めて小文を綴ったことがある:
お盆のこと 「おしょらい」のこと

「おしょらい」についてはだから、詳しくは、上掲の小文や「御招霊 - Wikipedia」などを参照願いたい。

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← お盆を前に、お墓掃除に。すると、墓地の脇を流れる用水路にフナを発見。一時はどぶ川のようだったのに、清流に近づきつつあるようだ。農薬などの使用が減ったということか。


 ここでは、「おしょらい」は、御招霊(おしょうれい、おしょうらい)と表記され、「日本の盂蘭盆(うらぼん)の年中行事の一つでお盆に先祖の霊があの世から帰ってくるとされるものを迎える、または招く迎え火の一つ。ごしょうらいやごしょうれいと呼んだり、お招霊とも書かれる」ことだけメモっておく。

 ただし、京都などでは(?)、「お精霊さん」と表記されるようだ。

昔の光景とはやや違うが:
おしょらい - YouTube


 藁(わら)で作った松明を燃やすのは、「先祖が帰ってくるのに道が暗いと困るので明かりを持って迎える意味を持っている」という。
 小生も子供の頃、夕方ともなると、一家総出で墓地へ向かい、お墓参りを済ませた後、父に松明に火をつけてもらい、懸命に松明を回したものだった。
 松明の火は、ともすると消えがちなので、必死になって回さないと消えてしまう。
 一方、下手に回すと、その巻き起こす風の勢いで松明の火が掻き消される。
 なので、力いっぱい回すのだが、滅茶苦茶に力任せで回してもダメで、結構、コツが要ったものだった。

 そんなオショライの光景は、小生の身近ではとっくに消え去ったが、市街地を車で走り回っていると、それでも、方々でそんな昔ながらの光景に出会えるわけである。
 闇の中、おしょらいの松明の火が、遠目には蝋燭の明りのようであり、地上に舞い戻ってきた御先祖さまのいのち、たましいの輝きのようでもある。
 そのおしょらいの火が、川面に映り、水面に揺れて、ご先祖様の影が揺れ踊っているようでもある。

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→ お盆に向け、庭の整備、そして畑の草むしり。連日の炎天下での草むしり作業の結果、過日の一周忌以来、蔓延った雑草を一掃することができた。

 日本人は、欧米の人に、あるいはともすると訳知り顔の日本の評論家などでさえも、宗教心が乏しいとか、宗教に熱心ではないと言われたりする。
 お寺の門徒、神社の信徒(?)の数は、人口の何倍もあったりするが、普段はお寺も神社も縁が薄く、葬式や正月やお盆の時などだけ、急に身近というか、脚光を浴びる。
 その時だけの(困ったときだけの)存在、というわけなのか。
 
 一方、お盆や正月などの際、お寺や神社は欠かせない存在として認識される。
 認識されるというより、あって当たり前の存在として、生活の中に溶け込んでいる。

 一体、日本人には信仰心(宗教心)があるのかないのか。

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