夏と言えば幽霊(前編)
日本では足のない幽霊像がイメージとして定着している。その場合の幽霊というのは、大概がうら若き女性であり、痩せているのが普通。丸々と肥え太った、いかにも女将さんという福相の幽霊さんというのは、いるのかどうか分からないが、見たという話はあまり聞かない。
→ 鰭崎英朋 『蚊帳の前の幽霊』(明治39年 絹本着色) (画像は、「「夢幻の美“鏡花本の世界”~泉鏡花と三人の画家」:カイエ」より。「鰭崎英朋…今こそ大正ロマン!」参照)
あるいは、実際にはそうした幽霊さんにも遭遇しているのだが、見ているほうが、相手が幽霊だとは気が付かないままに、通り過ぎてしまっているのかもしれない。
だとしたら、無視された幽霊さんは、きっと、誰にも気付かれないあたしって、何、幽冥の境でも存在感がないの…って、世を儚んでいるに違いない。
この際、男の幽霊は、勝手ながら割愛させていただく。理由は単に小生には興味が湧かないからである。福相の、足のある幽霊さんにも、申し訳ないけど、お引取り願うものである。
ということで、結局は、円山応挙がイメージを定着させた、足のない幽霊に話が戻っていく。それにしても、幽霊なんだし、着衣にこの世に恨みがあるわけじゃなし、素っ裸でスッピンの若き美しい女性の幽霊だったらいいなと、改めてつくづくと思う。そうした幽霊さんだったら、足があったほうがいいとは思うが。
どうも、足というか下半身に拘るのは、どうしたものか。円山応挙が足のない幽霊を描いたのは、そうした幽霊像にリアリティがあると思ったからなのだろうか。
江戸のある時期から、浄瑠璃や芝居などの影響もあって、何処かのお堀端の柳の枝の垂れる薄暗い場所で若く美しい女性の幽霊がスーと現れる、その際、足があるのかどうかは、実は問題ではないのかもしれない。燈篭の明かりと柳の木の具合で、顔を中心とした上半身に多めに光が当ったのかもしれない。
それとも、幽霊さんが、そうしたら自分が相手から見たら怖いに違いないと、冥界と此岸との境目というか踊り場の壁にある鏡に我が身を映しながら、わたしって綺麗、うっふん、と言いながら、研究に余念がなく、その挙げ句に、そうか、すね毛のあるようなあんよが相手に見られたら、効果が激減する、すね毛や無駄毛の処理をしなくっちゃ…、だったら、面倒だし、いっそのこと足に目が向かないようにしたらいいという結論に至ったのかもしれない。
ガキの頃とか、あるいは合宿か旅行などで旅館に泊まったりして、仲間が集まると、娯楽もない頃のこと、夜の深まりと共に、怪談話に花が咲いたものだった。
当然、灯りは落とすか部屋の中を薄暗くする。で、懐中電灯などで顔を下から照らすと、大抵の方の顔は、なんだか不気味に見えるから不思議である。光というのは、上から、あるいは前方向から当るのが普通で、下からの光というのは、本来、異例なのだろう。
いずれにしても、光の当たり具合一つで、表情も雰囲気もまるで違ってしまうことは、照明の研究に専念したことがなくても、それほどに想像を逞しくしなくても、経験から分かることだろう。
やはり、(自称か他称かは分からないが)若く美しい幽霊さん、誰か恨みを持つ相手の前で現れるに際し、劇的効果を研究し尽くしたに違いないのである。おどろおどろしい音の演出という音響効果も含め映像効果の研究者として、幽霊さんたち、つまりは幽霊さんを描いた画家たちは、映像文化の先駆者だと位置付けられるべきではなかろうか。
しかし、それでも、足があってもいいじゃないかという疑問は拭えないままである。
もしかしたら、足があったら、幽霊の正体が知れてしまう、そう、足が付くかもしれないと危惧したのだろうか。だったら、その幽霊さん、気が小さいというか、用心深いというか。確かに、幽霊が現れたという痕跡が残っては、興醒めである。足跡など残らないほうがいい。正体不明が一番である。
手形くらいは残ってもいい…? そう、幽霊さん、登場する際には、手をダラリというかブラリとさせている。これまた定番とも言うべき所作である。
もしかしたら、あの世とこの世の境の何処かに所作を学ぶ練習場があり、そこには踊りのお師匠さんがいて、幽霊になる基本動作講座なるものが開かれていて、厳しい修行に耐え、お師匠さんのお眼鏡に適った人でないと、学校を卒業できず、そうした修練に耐え抜いた誉れのある方のみが、晴れて(しかし、実際には薄暗い場所なのだが)免状を得て、誇らしげに、どうよ、あたいって綺麗、あたいって怖い、と、登場するのかもしれない。
ということは、案外と幽霊さんは、晴れの姿を見て欲しいとばかりに、堂々と現れているのかもしれない。ただ、一応は、幽霊なので、密やかに、ひめやかに現れねばならないという戒律もあり、よって、上体のみが目立つ、足が曖昧模糊と暈された、そんな中途半端な姿になってしまっているのかもしれない。
言うまでもなく、上記したような厳しい試練と競争に勝ち抜き、生き延びるには、お師匠への付け届けも必要だし、幽霊協会(その胴元は、大概は金持ちの、ヒヒオヤジである)の名誉も掛かっているので、やっぱり若く美しい女性ばかりが免許を取得するより仕方がないのだろう(江戸時代における女性の社会的位置というう観点から考察する必要もあるのは、言うまでもないだろう)。
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コメント
幽霊の正体みたり枯れ尾花といってね。
幽霊は存在するか?まずもって死後の世界はあるのか?
僕はあると思う。臨死体験した人には共通のパターンがあるとか。
上部から死んだ自分を眺めるー暗いトンネルー光につつまれるーあの世との境界ー蘇生
これは物理現象では説明出来ないと欧米では臨死体験学会もできてますね。日本ではなぜか幽霊とか魂とかはまともに扱われないきらいがありますね。
投稿: oki | 2011/08/10 22:11
okiさん
臨死体験に共通するパターンがあるってことは、逆に言うと、何か作為(影響関係)があるのではという推測を誘いますね。
幽霊は、存在するとしたら、人の心の中に存在するでしょうね。
死後の世界についても、(以前、ブログでも書いたと思うけど)、ある意味、存在すると考えています。
車などで衝突寸前、動きがスローモーションになる。
何か、土壇場とかギリギリの極みにあると、時間がどこまでも延びていく、ついには永遠に思えるほどに。
死の瀬戸際に望んだなら、意識は際限なく伸びてしまう。
つまり、永劫の時を生きてしまうわけです。
他人の側からすると、死後ではないとなりますが、当人からすると、死後の無間地獄ということになるでしょうね。
投稿: やいっち | 2011/08/11 21:07