夏と言えば幽霊(後編)
さて、ようやく、本題に入る。
← 丸山応挙『幽霊画』(バークレー美術館蔵) (画像は、「第126話落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く」(ホームページ:「落語の舞台を歩く」)から)
幽霊と霊魂とは同じモノなのだろうか。それとも、全く別範疇の存在なのだろうか。いや、そもそも幽霊が何か分からないし、また、霊魂だって分からない。(大体、本来、両者共に存在しているかどうかさえ覚束ないのは問わないとして)分からないモノ同士を突き合わせて、同じか違うか、重なる部分があるか、なんて議論をやっても、論議の脱毛な…、じゃない、不毛な袋小路に迷い込むのは目に見えている。
ぶっちゃけた話、幽霊には魂があるのだろうか(その魂って何という愚かしい質問はしないこと)。小生の個人的な見解からすると、幽霊には魂がないのだと思っている。魂があったら、つまり、肉体から綺麗に分離され、空中か冥界に漂っていられるなら、何もこの世とあの世の境で漂い惑う必要もなかったわけである。
そう、肉体から抜け出て魂のみの存在になれなかった、そんな中途半端な存在が幽霊なのだ。この世に未練や恨みがあって、この世に見苦しくもしがみ付いて離れられない、宙ぶらりんの存在形態が幽霊なのだと思う。
魂が肉体から離れたなら、もう、字義通りに自由な存在であり、この世に今更未練も興味もなく、江戸の町どころか、地球を離れ、太陽系を離れ、宇宙だって離れ去り、あの世の何処かへと好き勝手に飛び出してしまい、宇宙の彼方の何処かを愉しげに飛び舞い踊り狂っているに違いない。
魂という存在(超存在)になってしまえば、何も、江戸の町の、それも丑三つ時という真夜中なのか未明なのか判断の付きかねる時間帯に、まして柳の枝の垂れる掘割の傍、まして季節は暑い盛りなのだから、蚊だって、飛び回っていて、下手に顔や腕がニューと出ていると、刺され放題になる、そんなしみったれた状況に出没する必要はないのだ。
となると、この世に過剰にしがみつくというのは、あるいは、幽冥の境の道場で、卒業できずに道場の裏の先生方の目の届かないところで、こっそり煙草を吹かしているような、そんな落ち零れが幽霊になるのであって、優秀な存在は、肉体やこの世とはきっぱり縁を切り、踊りの学校を卒業した後は、自由自在に融通無碍に飛び立って行くのだと考えられる。
そうだ、幽霊はあの世へスムーズに移れなかった、落ち零れの連中なのだ。つまり、卒業するには、足切りの点数に届かず、つまり、足を切られてしまった…。だから、幽霊には足がないのだ!!?
さて、幽霊と霊魂との関係については、更なる考察の余地が無限にありそうである。
その中の一点だけに触れておく。それには先ず、そもそも今日のイメージでの幽霊が誕生したのは、江戸時代であり、浄瑠璃や芝居などの影響のもと、リアリティの可能性の極限を追及した果てに生み出されたものだということを、まず理解しておく必要がある。
そう、幽霊の出自は、そもそもが高級か低劣かは別として、娯楽的観点から生れ落ちた存在だということだ。これは、つまりは、ある意味で宗教的範疇からも、食み出してしまっていることを意味しているのかもしれない。
江戸時代、戦国時代末の織田信長から始まった弾圧の結果、宗教勢力が徹底して弱体化し、宗教的権力や権威が、まさに文字通りのただの権威、求道的、あるいは庶民を救済する宗教本来の道を忘れ果て(棄てさせられ)、宗教的煩悶の類いが、個人の胸のうちへ内面化さてしまった、そういう時代と幽霊の誕生とが相関しているのだと考えられる。
宗教者の堕落は(しかし、当事者たちは幕府の厳しい監督のもと、安定した地位と権威を確保しているから、自己満足の境にいるのだろうが)、本願寺の僧侶たちのさまを見れば一目瞭然である。もう、庶民の生の苦しみとは、綺麗さっぱり縁を切ったのだ。
宗教的問いは、戦乱の世が終息したことで、宗教的情熱も含め、沈静化の一途を辿り、宗教者は、お寺や神社などに鎮座してしまい、庶民の悩みの行き場所がなくなってしまったのである。幽霊というのは、宗教的哲学的範疇としての霊魂から分離された鬼っ子だったのだろう。庶民の日常的悩みの類いは、宗教とは、宗教者とは縁のないものとなってしまったのだろう。そんな悩みは、本堂の奥で木魚を叩くだけの仏教者などにぶつけるものではなく、個人的に解決すべきものになってしまったのだ。
宗教的課題だったはずの、行き場のない悩める庶民の心は、まさに仏教界からは忌避され、この世を彷徨うしかなくなったのだろう。この六道の闇夜を迷う霊魂が、永遠の苦悩や煩悩を成仏すべく仏教者に弔ってもらえることもなく、幽霊という形で宙ぶらりんな境を彷徨うしかなくなったのだろう。
幽霊は芝居などの娯楽を背景に誕生した。同時に、宗教的懊悩の世界が仏門とは縁が切れ、庶民の背負う世俗的煩悩が行き場を失い、幽霊という半端な、しかし、だからこそ、庶民の誰もが共感・実感できる象徴的造形が誕生したのではなかろうか。
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コメント
幽霊や死後の話は、つのだじろう氏の説を支持します。
はたして、幽霊自身には、死んだという自覚があるのでしょうか。
たとえば、自殺者の霊は、死後も自殺に失敗したと思い込み、霊となって波長の合う者にとり憑き、高いところから飛び降りたり、電車に飛び込んだりすると書いてありました。
また、事故死など、死が突然に訪れると、なぜ人々が自分に気づかないのか理解できず、さまよってしまうようですね。
それもそうだと納得しました。
映画『シックス・センス』もしかり。
私は極楽浄土に行きたいです。
投稿: 砂希 | 2011/08/12 19:41
砂希さん
自殺もですが、事故死だと尚更、自分が死ぬことが信じきれない面があるのでしょうね。
ホントに自分は死ぬのか、しばらくしたら、ふっと目覚めて、見回すと、周囲には家族や友人らが取り囲んでいる。
おお、助かった、意識が回復したぞ! と、喜びでどよめく場面が展開されるのではないか…。
今、自分は悪夢に魘されているだけじゃないのか…。
その意味でも、ギリギリの土壇場にあっても、人は自分が死ぬとは信じきれないのかもしれない。
小生は、その瀬戸際の意識が永劫に続く(ように思われてしまう)、と考えています。
悲劇的な末期を遂げるなら、悲劇的場面が延々と続く。
時間が何処までも延びていってしまう。
恨みを抱いての死なら、恨みの念がその人をとことん苛み続ける。
末期の時を少しでも平安にと思うなら、やはり、自分は極楽浄土へ行くと、信じきる、つまり、信心の道にすがるしかないでしょうね。
投稿: やいっち | 2011/08/12 21:23
お寺の施餓鬼でこんな話を聞きました。
東日本大震災でなくなった人の霊がついてしまって、毎日夢にその人がでてきて、俺は死んじゃったのか、と夢の中でかたりかけるそうです。きちんと供養したら夢に出てこなくなったー東北の住職のはなしです。
山折哲雄さんも臨死体験をしていますね。
そしてあの世があると信じた方が有益としていますね。
実際あの世がなければ、殺人を犯してみつからなかった者も道徳的なものもいっしょとなってしまう。
僕もあの世の存在に賭けます。
投稿: oki | 2011/08/12 22:26
okiさん
「あの世があると信じた方が有益としていますね」
この考えは、パスカルの賭けを連想させますね:
パスカルは読者に対して自らの立場を分析することを要求している。もし理性が本当に壊れていて神の存在を決定する際の土台にならないなら、コイントスしか残っていないことになる。パスカルの評価によると、賭けは不可避であり、神の存在の証拠や反証を信じられない者なら誰でも、無限の幸福が危険にさらされるかもしれないという状況に直面せざるを得ない。信じることの「無限」の期待値は、信じないことの期待値より常に大きい。
(以上、転記)
ただし、「パスカルは、この賭けを受け入れること自体が十分な救済だとはしていない。賭けが書かれている節の中で、パスカルは自身の理解について、それが信仰の推進力にはなるが信仰そのものではないと説明している」わけです。
さすがにパスカルで、信仰というものを深く考えていると感じます。
その上で、確かに、以下のような主張をしているわけです:
パスカルは「得るときは全てを得、失うときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が賢いと主張した。すなわち、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない。
(以上、転記)
小生自身はというと、不心得者の、しみったれた信仰もどきです。
親鸞は、悪人こそ救われるとしています。
自分が悪人かどうかは別にして(悪人に徹するほどの人間じゃない)、神も仏も信じられない、信仰に徹することも賭けることもできない、しみったれた人間でも、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えるだけで、救われる、そのことだけを念じているようです。
投稿: やいっち | 2011/08/14 21:51
お盆ですね。
さて親鸞がでましたが、前に書いた浄土真宗親鸞会はとんでもない主張をしていますね。この世で救われなければ、無間地獄に落ちるというのです。極楽浄土か地獄かどちらか。
無論親鸞はこんなこと言ってないわけで、いづれの行も及びがたき身ー救われるとされる様々な行をやってきたが自分にはできない、でたどりついたのが念仏ですね。こんな身を救ってくださるのはアミダの念仏だけだ。
親鸞会の本を販売しているのが一万年堂出版です。
まともな雑誌にこの出版社がまともな出版社みたいに書いてあったから抗議の手紙送ったことあります。
投稿: oki | 2011/08/14 22:43
okiさん
浄土真宗親鸞会は、新宗教の一つですね。
「1987年4月に週刊現代が『豊田商事から大量献金うけていた謎の教団の正体』という記事を掲載し、豊田商事の永野一男会長(当時)から多額の献金が親鸞会に流れていたと報道した」ことがあり、「この事実は法廷の場でも明らかにされ」たとか。
また、「2010年に週刊ダイヤモンド『親鸞会"悪魔の3大契約書"』で、一部の信者に関連病院である真生会富山病院に対し「自分の全財産を贈与する」という契約を結ばせていると報じられた」とも。
新宗教の類は、いろいろありますね。
それというのも、既存の教団の努力不足もあるのでしょう。
ついつい、現世利益を謳い文句にする新宗教の誘いに苦しむ人が飲み込まれてしまう。
しかも、加入すると、強固な信心に凝り固まる。
テレビや本などマスコミへの影響もさることながら、政治への影響力も行使されたり、時代が混迷すると、その隙を突いて、いろんなものが出てくるわけですね。
投稿: やいっち | 2011/08/16 21:26