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2011/08/31

石倉町延命地蔵尊(前編)

 富山市でも桜並木の美しさで有名なスポットの一つに、松川やいたち川沿い、そして神通川沿いの土手道がある。
 春には、これらの川の土手に沿って歩けば、ずっと桜並木を愛で続けることが出来る。
 広い空、川面、土手、桜並木…。

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← 桜越しのいたち川。2008年4月6日、撮影。「富山県富山市を流れる延長約12kmの河川。常願寺川と神通川という富山の2大河川を結ぶ川である」(「いたち川 (富山市) - Wikipedia」より)。小生の家もこの2大河川の間の扇状地に位置している。

 そのいたち川の土手道では、ムクゲが過日より満開である。
 仕事の途上、その土手沿いの道を走るので、通勤のたびに、ムクゲなどの花を楽しむことができる。
 そのいたち川の一角に、「石倉町延命地蔵尊」がある。

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2011/08/30

ゴーヤ(緑のカーテン)の日々(後編)

 困るのは、収穫は、平均したら日に一個だが、在宅するのは隔日。なので、収穫は大概、二個なのである。
 一個でも、巨大で、熟しすぎて黄色くなる直前のもの。

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→ 或る朝、ゴーヤなどの様子を覘きに行ったら、密生するゴーヤの葉っぱの表面に真っ赤なものが。花? 近づいてみたら、ゴーヤの種だった。どうやら、ゴーヤの実を収穫するタイミングを逸したようで、巨大な一個が黄色く変色し、且つ、実が割れてしまっている。割れたのか、鳥などに突っつかれたのか、分からない。その裂かれた実の中から、種などが零れ落ちたようだ。

 中ぶりのものを二個だと、一人には多すぎる!
 チャンプルを作るのはいいが、丼に山盛りになる。オカズは他に何も用意しないとしても、いくらなんでも食べすぎである。

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2011/08/29

ゴーヤ(緑のカーテン)の日々(前編)

 小生自身はともかく、緑のカーテン作りの主役である、ゴーヤはすこぶる元気である。
 画像にあるように、葉っぱやツルもドンドン茂るし伸びるが、実のほうも、驚くほどの収穫に恵まれている。

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← ゴーヤは夏も終わりに近づいているというのに、相変わらず、育ち続けている。ゴーヤの実も、平均すると、日に一個は収穫できている。

 ナスだと、亭々の人が喜んでもらってくれるが、ゴーヤとなると、敬遠される方も多かったりする。

 畑仕事(主に草むしり)している最中にたまたま顔を合わせた近隣の人などに、(半ば強制的に?)もらってもらう。

 今年は、誰とも会えなかったときは、自分で調理して食べるようになった。

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2011/08/28

久しぶりに書店へ(後編)

 書店の天井は高い。
 本が、通常の高さではなくて、移動式の梯子に登ってやっと手に届く高さにまで、書架に納められている。
 つまり、床面から手の届く高さまでの一段目、梯子に登って手にする二段目と、二段の構造になっている。

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→ 我が家の庭には、数年前までは、もっといろんな花が咲いていたのだが、小生の世話や知識が足りず、咲いてくれるのは、小生が世話しなくても育つ、丈夫な花たちだけ。

 二段目(そのフロアーの二階部分)には、全集など、大抵の人は素通りするような本が納められている。
 でも、小生には、気になる本が二階部分にたくさんあって、困った。
 若ければ、梯子に登って物色することもありえたろうが、今となっては、梯子に登るのは、庭木の伐採の際、脚立に登るので辟易していて、トライする気にはなれない。

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2011/08/27

久しぶりに書店へ(前編)

 この数日、やや体調不良ということもあり、今日は完全オフ。
 ほぼ終日、ダラダラしていた。

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← 仕事で呉羽山を登った。絶好のドライブコースで、富山市内を一望できる。

 知人のお見舞いとか、親戚の家へ挨拶にとか、庭や畑の世話とか、家の補修とか、用事は嫌って言うほどあるのだが、全て忘れて、体の養生に専念。

 さすがに、午後も二時近くになったら、ロッキングチェアーでの転寝(うたたね)、居眠り、惰眠を貪ることにも飽きて、外出することにした。

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2011/08/26

『逝きし世の面影』…

 今日は母の月命日。
 仏花や仏飯を供え、蝋燭を灯し、茶菓子も添え、仏壇に向かって、しばし瞑目。
 お彼岸も命日も、一人で祈る。

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→ 「A Japanese family scene in common life 」『Ten Weeks in Japan』(George Smith, 1861) 過日、読了し、紹介した渡辺 京二【著】『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)には、往時(江戸時代や明治の初期)の日本の面影を偲ばせる絵が多数、掲載されている。

 仏壇には、父母の遺影写真やお骨が。
 
 今日の仏花は、(名前は忘れたのだが)いつもと違って、やや派手な色彩の花を供えた。
 深紅の花と、紫(濃い青)の花と。

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2011/08/25

ウィンスロー・ホーマーなるアメリカの画家はご存知?

 ウィンスロー・ホーマー Winslow Homer (February 24, 1836 – September 29, 1910) は、19世紀アメリカの傑出した風景画家、且つ、版画家。
 ある画家のことを調べようとしたら、偶然、以下のサイトをヒットした:
THE BLUE LANTERN Winslow Homer At Houghton Farm

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← Winslow Homer『The new novel 』(1877 Museum of Fine arts, Springfield, Massachusetts) ホーマーの世界は、アンドリュー・ワイエスのような、乾いた抒情ではなく、もっとウエットで親しみのある世界。

 アメリカはニューヨーク在住のJane Librizzi さんが紹介するアートの世界の中の一頁に遭遇したわけである。

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2011/08/24

診察の待ち時間(後編)

 その日、愚痴を零された方は、内臓の病の方。
 ただでさえ、体が憂くてならない。それなのにずっと待たされ、辛かったという。
 
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← カール セーガン (著)/アン ドルーヤン (著),『はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み〈下〉』( 柏原 精一/三浦 賢一 /佐々木 敏裕 (翻訳) 朝日新聞) 「愛・献身という「人間的な」性質だけでなく、暴力・差別などの「非人間的な」側面をあわせ持つ人間。この予盾に満ちた性格はどこから来たのだろうか。最新の科学の成果をもとに、「人間性の起源」を解きあかす、待望の書」という。十数年前、読んだ本。帰郷して、古い蔵書から、あれこれ選んで主に車中で再読している。画像は、下巻のものだが、今は未だ、上巻を半ばほど、読んだところ。データ的には古くなった面もあるが、セーガンの良さは、幅広い観点・知識と、読んで面白いと感じさせる筆致。無類のサイエンスライターでもあったことを改めて実感させられている。

 午前、11時の予約だったのに、診察が終わったのは、一時過ぎ。
 薬を出してもらうためにも、また、待たされ、病院を後にすることができたのは、結局、2時を回っていた、という。
 しかも、診察はほんの数分、とも愚痴られる。


 

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2011/08/23

診察の待ち時間(前編)

 仕事柄、お客さんと車中でお喋りする機会に恵まれることもある。
 最初から最後まで沈黙に終始することもあるが(どうぞ! とか、ありがとうございました! などの挨拶は別にして)、なぜか、初めての方なのに、短い車中での移動の間、ずっとお喋りが続くことがある。

 こちらから、天気のこと等、話の取っ掛かりで持ち出すこともあるが、基本的には、挨拶など必要最小限のこと以外は、余計なお喋りはしない(方針である)。

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← 渡辺 京二【著】『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー) 「近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊」といった本。明治維新という大変革が、いかに多くのものを古き良き日本から奪ったか。江戸や明治前半の日本人像を一変させてくれる本。


 でも、お客さんから話しかけられたら、それはしっかり聞くし、受け答えもする。
 雰囲気として、お客さんのほうが話をしたいと感じたら、こちらは受け手というか、聞き手に回る。
 相槌を打ち、合いの手を入れ、お客さんが気の済むまでお喋りしてもらう。


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2011/08/22

この世に何がある

 雨上がりの小道を歩いていたら、何かが私の頭に落ちた。
 数知れない細かな透明な粒を目にした。
 それは、近所のブロック塀越しの木の葉を伝って、私の頭に落ちた一滴の水の雫だったのだ。ちょっとした衝撃の波が私の心に走った。

 それは、冷たい何かの直撃を受けるという予想外の出来事への新鮮な驚き。
 でも、すぐにそれは私が決して孤立してはいないということの直観へと転化した。

 人は年を取るごとに、意外性への素朴で新鮮な感動を忘れていく。
 それは、生きることに慣れてしまったことを意味している。

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2011/08/21

祈りの果てにあるものは…

 祈る心がある。
 が、闇の世界に踏み惑った人間には、祈りを捧げる場がない。
 あるいは、方向感を失った人間には、祈りを闇の何処へ向けて捧げればいいのか分からないのである。

 ただ、祈る心が宙に揺れている。

 祈りは、ただ、祈りであればいい。ただ、闇に向かって祈りの思いを発すればいい。
 それは、業に溺れきった人間の救いを求める唯の叫びあるかもしれない。声なき声に過ぎないかもしれない。
 その溺れるものが藁をも掴む思いで「助けて!」と叫ぶのであっても、それはきっと祈りなのだと思う。それでいいはずなのだ。

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2011/08/20

誰か居る!(後編)

 用心のためでもないが、オレは木刀を家に置いている。
 その木刀は、生憎、隣の書斎の片隅に立てかけてある。

 使わないままに、埃を被っているその木刀は、大学に入学して間もない頃に入手したもので、学生時代どころか、その後、上京してからのフリーター時代、サラリーマン時代、タクシードライバー時代、さらには富山へ帰郷した今に至るまで、ずっと身近にあったものだ。

 オレは、部活には加わらなかったものの、剣道が好きだった。
 一時は真剣を買おうと、鎌倉のある刀剣の店を冷やかしたこともある。
 
 さすがに白刃の刀を買うことはしなかったものの、木刀だけは買った。
 上京した際、荷物のほかに木刀を持って皇居の周りを散歩したら、さすがにおまわりさんに誰何されたものである。

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2011/08/19

誰か居る!(前編)

 ふと、目覚めた。
 脇の置時計を見ると、二時前である。
 真夜中過ぎ。

 ゴトッ!
 何だ?
 そうか、この物音で目覚めたのだ。
 
 昨夜来の雨が今も降り続いている。
 雷鳴の響きこそ聞こえないものの、雨の降り方は半端じゃない。
 猛烈な雨音、近くの小屋のトタン屋根を叩く音、木の葉を叩きつけ落としてしまおうという勢いの雨の音に目覚めた…、そう思いたかった。

 しかし、間もなくまた正体不明の音が聞こえた。

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2011/08/18

白夢

 白い夢を見る。
 夜毎に、白昼に。

 とぐろを巻く夢。
 原初の叫び。叫喚。阿鼻。

 悪夢?
 違う!
 空白。からっぽ。何もない。何も感じない。
 麻痺している?
 裂けてしまっている。
 食い違って、もう、つじつまが合わない。


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2011/08/17

秋茄子と言えば(後編)

 ただし、それでも、最後の最後まで、口に出来ないものが一つだけ残った。それは松茸とか椎茸の類いである。
 これだけは食わず嫌いではなく、何度トライしても口に出来ない。無理して口に入れると吐き気がする。
 というか、吐いてしまったこともある。

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← 「毎年8月1日に行われるこの納涼花火大会は、富山大空襲で犠牲になった人達の鎮魂と永遠の平和を願うため、終戦直後の昭和22年より行われてい」る。そう、ただのイベントではなく、鎮魂の催しでもある。 「音と光のページェント:納涼花火大会へ!」や、特に「富山大空襲と母のこと」や「花火大会と空襲の間に佇む」など参照のこと。

 何かの虫を喉にしているようで、どうにも我慢がならない。
 八宝菜の時は、冗談じゃなく死ぬ思いだったのだ。他の具は嫌いだけれど噛まない限りは口に入れることもできるし、御飯で丸めて喉を潜らすこともできる。が、椎茸、松茸だけはどうにも。

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2011/08/16

秋茄子と言えば(前編)

 秋茄子と言うと、秋茄子は嫁に食わすなという昔からの言い伝えというか、諺がある。
 意味合いは、一頃は、「秋茄子はとっても美味しいので嫁には食べさせるのはもったいない」とか、「秋茄子は種が無いので嫁に子供が出来ない事を気遣う」などという意味なのだと、言い習わされたりもしたものだ。

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→ 東日本大震災を受け、一時は中止の憂き目に遭うと言われていた、富山市の花火大会が、何とか予定通り、8月1日(月)の夕方から夜にかけて、幸いにも開催された。正式名称は、「第65回北日本新聞納涼花火(富山会場)」。

 クイズなどによく採り上げられ、今では、「ナスは、体を冷やすので食べ過ぎるのは体に良くない」ので特に嫁には食べさせないほうがいいのだという思いやり乃至は知恵の含まれた諺だと理解されてきている(この俗説や説明が妥当なものかどうかの確認は未だ行っていない。嫁に対する姑の意地悪だという説があるのは、言うまでもないだろうし)。

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2011/08/15

セミ時雨の夏、おしょらいの夏(後編)

 日本の道を歩いてみると、何処にでも、というと大げさになるが、それでも至る所に、お地蔵さんが道端にあることに気づく。

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← ゴーヤなどによる緑のカーテン。ゴーヤは、連日、収穫。今日も近所に三つ、ナスも併せ、おすそ分けし、小生自身、二つの実を使って、ゴーヤチャンプルー。とうとう、今週は、週に三回、ゴーヤ料理と相成った。

 しかも、大概のお地蔵さんには、赤い涎掛けが掛けてあったり、その前にお供えか花が供えられてあったり、いずれにしても、風雨に晒されっぱなしというお地蔵さんという光景は少ない。
 大概は、お地蔵さんは小さな小屋に収まっていたりする。

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2011/08/14

セミ時雨の夏、おしょらいの夏(前編)

 13日の土曜日は営業で富山市の市街地を中心に走り回っていた。
 土曜日だし、その上、お盆なのに、やや人の出が多い。

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→ 庭先の畑のコスモスたちも、一斉に開花。
 
 そうではなくて、お盆だから人が多くなっているのだ。
 富山は、お盆ともなると、日ごろは東京などへ出ている人が一時的に帰省している、だから、普段より人が多くなるわけである。

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2011/08/13

夏と言えば幽霊(ゾクゾク編)

 そう、俗説では、人魂というのは、人の遺骸が土中で腐り、雨が降り、人体の中にあった燐が溶け出し、やがて土の表面に近付いた燐が、何かの拍子に暖められて燃え出すのだと、説明されている。
 この説は正しいのだろうか。だれか実験したのだろうか。そうはいっても、今更、人の遺骸を埋めて腐らせるわけにはいかないって。

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← 鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「狐火」 (画像は、「狐火 - Wikipedia」より)

 そんなことは、ないはずである。やる気があれば、何事もできるはずである。
 そもそも、何も人の屍骸に拘る必要などない。愛するペットちゃんが死んだら、火葬(荼毘)に付すのだろうか。
 そういう奇特な方もいるのだろうが、土中に埋める形で埋葬に代える人も多いはずだ。

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2011/08/12

夏と言えば幽霊(ゾク編)

 この頃は、あまり流行らないというのか、耳にしなくなった事象に人魂がある。噂によると、夜、人魂を見ると、人妻に会うというのだが、これはどうやら、夜陰に紛れた人妻を人魂と勘違いしたものと推測される。言うまでもないが、人魂と人妻は歴然と違う事象なのである。

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→ 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「人魂」 (画像は、「人魂 - Wikipedia」より)

 さて、最近はあまり人魂を巡る話題は耳にしなくなったような気がする。というより、そもそも怪談話自体が人気がない。あっても学校のトイレの怪談など、何か乾いていて、江戸時代以来の幽霊モノと比べると味わいも人情も薄れている。

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2011/08/11

夏と言えば幽霊(後編)

 さて、ようやく、本題に入る。

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← 丸山応挙『幽霊画』(バークレー美術館蔵) (画像は、「第126話落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く」(ホームページ:「落語の舞台を歩く」)から)

 幽霊と霊魂とは同じモノなのだろうか。それとも、全く別範疇の存在なのだろうか。いや、そもそも幽霊が何か分からないし、また、霊魂だって分からない。(大体、本来、両者共に存在しているかどうかさえ覚束ないのは問わないとして)分からないモノ同士を突き合わせて、同じか違うか、重なる部分があるか、なんて議論をやっても、論議の脱毛な…、じゃない、不毛な袋小路に迷い込むのは目に見えている。

 ぶっちゃけた話、幽霊には魂があるのだろうか(その魂って何という愚かしい質問はしないこと)。小生の個人的な見解からすると、幽霊には魂がないのだと思っている。魂があったら、つまり、肉体から綺麗に分離され、空中か冥界に漂っていられるなら、何もこの世とあの世の境で漂い惑う必要もなかったわけである。

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2011/08/10

夏と言えば幽霊(前編)

 日本では足のない幽霊像がイメージとして定着している。その場合の幽霊というのは、大概がうら若き女性であり、痩せているのが普通。丸々と肥え太った、いかにも女将さんという福相の幽霊さんというのは、いるのかどうか分からないが、見たという話はあまり聞かない。

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→ 鰭崎英朋 『蚊帳の前の幽霊』(明治39年 絹本着色) (画像は、「「夢幻の美“鏡花本の世界”~泉鏡花と三人の画家」:カイエ」より。「鰭崎英朋…今こそ大正ロマン!」参照)

 あるいは、実際にはそうした幽霊さんにも遭遇しているのだが、見ているほうが、相手が幽霊だとは気が付かないままに、通り過ぎてしまっているのかもしれない。
 だとしたら、無視された幽霊さんは、きっと、誰にも気付かれないあたしって、何、幽冥の境でも存在感がないの…って、世を儚んでいるに違いない。

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2011/08/09

ヒロシマ ナガサキ フクシマ(後編)

 小生は、フクシマ原発事故から三ヶ月後の6月11日、「原発は引き伸ばされた原爆」と題した記事を書いている。
 少なくとも日本は、原子力発電所から最終的に出てくる放射能汚染物質の処理技術も能力(使用済み核燃料や高レベル放射性廃棄物の処理問題)も未だに有していない。

 要は当面は、クリーンであるかのようなエネルギーを取り出すだけのように見えて、その実、放射能汚染物質を生み出し続けている、溜め続けている、そうして排出された汚染物質の処理が不透明なだけでなく、岩盤に封入するにしても、自然の破壊、自然界に棲息する生き物への脅威に他ならないのである。

 原発は、特に日本においては、クリーンどころか、ダーティのきわみなのだ。

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2011/08/08

ヒロシマ ナガサキ フクシマ(前編)

レベル7という最悪の事故を起こした福島第1原発による大量の放射能放出によって国内ではかつてない規模の被曝が続いている」。

 核汚染の脅威、実際の被害体験のある地域は、世界を見渡せば、ロシア(チェルノブイリ)やアメリカ(スリーマイル島)、ビキニなど、ないことはないが、二度の原爆の悲劇を体験したにも関わらず、アメリカや政府の洗脳政策に呑み込まれ、幾つかの原子力施設での事故を経て、ついに、福島第1原発による大量の放射能放出、汚染を体験し、また、体験しつつある国は、日本だけである。

 それなのに、産業界は未だに、福島第1原発の事件は他人事なのか、原子力に依存する政策を続けようと目論んでいる。

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2011/08/07

8月5日は「タクシーの日」でした

 8月5日は「タクシーの日」であった。
 なんて言っても、世の中の大半の方には、ちょっと、へえー、そうでしたか、でも、それがどうしたの、くらいのものだろう。

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← 謎の画像の正体は、「ここ」にて明かされる。

タクシーの日|東京のタクシー 東旅協[社団法人 東京乗用旅客自動車協会]」によると、「わが国で最初にタクシーが誕生したのは大正元年8月5日、麹町区有楽町の元数寄屋橋際(現在の有楽町マリオンの地点)に設立されたタクシー自動車株式会社で」、「まずフォード6台でスタートし、上野と新橋に営業所ができ」たとのこと。
 最初はフォードの車だったってのが、時代を表しているような。
 
 実を言うと(やや大げさ?)、来年はタクシーが日本で稼動し始めて百年目となるわけである。
 だから、何? と言われると苦しいが。

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2011/08/06

ゴーヤの実を調理(後編)

 とりあえず、収穫したゴーヤとナスを水に漬け、数時間後、水を切って、調理に取り掛かる。

 まずは、ナスを浅漬けにする。
 その前に、スーパーへ買い物に行って、浅漬けの元を買ってきたことは言うまでもない。
 これまでも(といっても、昨年は、家の中のことで忙しく、漬物作りも一切、手がつけられなかった)、小ぶりの漬物用の鉢で、漬けてきた。

 が、鉢にひびが入っている。
 しかも、漬物石が見当たらない。

 昨年の二度にわたる不幸の最中、家の中を大掃除したので、その際に、漬物石は台所から追放され、漬物鉢も損傷を被ったのだろう。

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2011/08/05

ゴーヤの実を調理(前編)

 我が家の南側、道路沿いの細長い花壇は、緑のカーテン作成中、とのことは、折々ブログでも綴っている。
 作成中というより、もう、先月から真夏なので、活躍中と言うべきか。
 一昨年は、ゴーヤとヘチマという強力なコンビで緑のカーテンを作った。

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→ 過日、駅のタクシープールにて、雨の富山の夜景を撮る。デジカメの調子が悪い。カビが内部を犯して、撮影した画面に大小の黒い雲が幾つも映る。

 その迫力にはただならぬものがあって、南西角にある、当時は小生が居住していた六畳間は、窓がゴーヤやヘチマの葉っぱに覆われ、昼間でも電灯を点さないと、足元が危ういほどだった(←大げさ)。

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2011/08/04

ユリの根を掘り返す?(後編)

 その雑草の山は、新たに育とうとする雑草類にとっても、滋養の宝庫であり、事実、いろんな雑草類が蔓延る場ともなってきている。

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← 父母の一周忌の法要の日の前日に開花…。父母が丹精篭めて育てていたキウイを枯らしたしまった、その花壇に咲くユリ。悔恨の花なのか。開花しては散ってしまうが、すぐに別の花が開花してくれる。まだしばらくは楽しめそう。ところで、我が家のユリは、鬼百合

 ムラサキツユクサやドクダミ、野菊なども混じっているが、多くは名も分からない雑草類。
 そこに(そこだけではないが)、剣のような葉っぱも生えている。
 それは、グラジオラスである。

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2011/08/03

ユリの根を掘り返す?(前編)

 先月のある頃から、我が家の庭にユリの花が咲き始めた。
 最初は、細長いホウズキのような袋状のものが茎の先に生った。

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← 7月の二十日ごろだったか、庭の草むしりをしていたら、見慣れぬ植物を発見。ホウズキのような、不思議な植物だ、というのが最初の印象

 何だろうと、不思議に思いつつ、育っていくのを見守っていたら、或る日の朝、庭にオレンジ色の花が咲いている。
 ホウズキを細長くしたような形状というは、ユリの花が丸まっていたものらしい。

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2011/08/02

3本の杉の木を断ち切った(後編)

 もう、時代は変わった。
 わが町にさえ、マンションがあるし、大方の家は、木造であっても、新素材の壁面になっているし、コンクリートの塀の家もあったりする。
 巨大な杉は、昔の名残なのだ。

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→ 作業を終えて、脚立を降り、地上で、ホッとする。天辺を断ち切られた3本の杉の木の様子。

 台所の脇の杉の木の列は、世話が足りないこともあって、すっかり弱っている。
 幹が弱っているだけでなく、細い。
 手で押せば、ゆらゆら揺れる。
 根元がどうも、危うい。
 

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2011/08/01

3本の杉の木を断ち切った(前編)

 先月下旬、一周忌の法要を喪主として執り行い、無事、役目を勤めることが出来た。
 今は、その後片付けをボチボチとやっている。

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→ なんとか、1本めの杉の木の枝葉を幹ごと切り落とした。脚立の上から撮影しているので、枝葉が小さく見えるが、幹は4メートルほどある。遺した幹は5メートルほど。

 法要の場として仏間や座敷を設定したのを元の形に戻すとか、手伝ってくれた親族へのお礼回りなどなどである。
 それらが一段落して、落ち着いたらやろう、やらなくっちゃとおもっていた課題があった。

 その課題の一つを今日、思い切って片付けた。


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