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2011/07/28

山本作兵衛の筑豊炭鉱画と五木『青春の門』と(前編)

 今夜、NHKテレビでも特集されていたが、「世界記憶遺産に山本作兵衛の筑豊炭鉱画が登録」というニュースは、嬉しいことであると同時に、ある種、当惑の思いも過ぎっていたかもしれない。
(以下、敬愛の念を篭め、敬称は略させていただきます。)

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← 山本 作兵衛 (著)『新装版 画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録』(講談社) ユネスコ「世界記憶遺産」登録を機に1967年に刊行された画文集を緊急復刊! だって。

 というのも、世界記憶遺産には、『源氏物語』などが日本では念頭にあったからだ。
 芸術作品や文学作品を登録されたい…。
 そんな中、大方の日本人には馴染みの薄かった、山本作兵衛の筑豊炭鉱画が登録されたのだった。

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→ 「ふんどし一つ身にまとい、低く狭い坑道を腹ばいになって掘り進む入れ墨の男。後ろでは上半身裸で乳房をあらわにした女が、掘り出された石炭をかき集める」…。小生は、『青春の門』への挿画か何かでこういった絵を見て、生々しいものを感じていた…ような。(画像は、「Painting by Sakubei Yamamoto - Communication and Information Sector's Photobank」より)


 ラジオでは、この話題は一ヶ月以上も以前から、もう何度も採り上げられていた。
 テレビだと、取材や編集などに時間を要するのか、ようやくメジャーな場で話題の俎上に上ったわけである。

 こうした名も泣き庶民による作品の価値が、世界のひのき舞台で評価を受けることで、逆に日本において再評価の対象として日の目を見ることになったわけだ。

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← 『~山本作兵衛 炭鉱記録画 ユネスコ『世界記憶遺産』認定記念~炭鉱(ヤマ)に生きる 』(ドキュメンタリー映画 (出演), 萩原吉弘 (監督) | 形式: DVD 紀伊國屋書店)

日本初!世界記憶遺産(山本作兵衛の筑豊炭鉱画)登録|大切なことはすべて世界遺産が教えてくれた ~世界遺産検定マイスターのブログ~」によると:

日本ユネスコ国内委員会事務局に25日入った連絡によると、福岡県・筑豊の炭坑労働の様子などを独特の手法で表現した画家、山本作兵衛(1892~1984年)の原画や日記などが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「メモリー・オブ・ザ・ワールド」(MOW、通称・世界記憶遺産)に登録されることが決まった。日本の歴史資料のMOW登録は初めて。

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→ 画像は、「Painting by Sakubei Yamamoto - Communication and Information Sector's Photobank」より。

 以下、詳細は当該頁や、「asahi.com(朝日新聞社):筑豊の炭鉱画、国内初の「記憶遺産」に 山本作兵衛作 - 文化」などを参照のこと。


 後者によると:

 山本作兵衛は現在の福岡県飯塚市生まれ。7歳ごろから父について炭鉱で働き始め、採炭夫や鍛冶工として、筑豊地域の中小の炭鉱で働いた。63歳で炭鉱の警備員として働き始めたころ、孫らに当時の生活を伝えようと炭鉱の絵を描き始めるようになった。92歳で亡くなるまで描いた絵は2千枚近いと言われる。

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コメント

炭鉱というと僕は行きませんでしたが目黒区美術館の炭鉱の展覧会、正木基という名物学芸員が担当して完売した図録はものすごい資料!この山本という人の炭鉱画も取り上げられているでしょう。正木学芸員は今年、原爆をみるという展覧会も企画したのですが、原発事故のため上の方の判断で中止になってしまいましてねー。
あと炭鉱というと土門拳の写真、弁当を持って来られない子は弁当の時間中、他の子と眼をあわさずじっと雑誌を読むというのが忘れられません、どんな大人になったのだろうなー。

投稿: oki | 2011/07/28 22:57

お久しぶりです。
ご両親の一周忌も終えられたのですね。ご苦労様です。
私も、5月に母を亡くしました。
山本作兵衛の作品は以前から、故郷夕張も炭坑の町だったので、よく存じておりました。
記憶遺産にユネスコが認定してくれて、明治から、
新興国日本を支えた石炭、そこで働く炭坑夫の赤裸々な姿、日記がひの目を見て嬉しい限りです。
まるで、やくざのような刺青や、刃物を振り回す炭坑夫の姿に驚かれるかもしれませんが、過酷な労働の中で健康保険も、
労働者救済もない時代、炭坑夫たちの間では「友子制度」という、互いに助け合う制度ができていて、それが親分、
子分の関係のようになったなごりと思います。
大変な労働だったことがうかげえます。

投稿: さと | 2011/07/29 18:52

okiさん

いただいた情報で、以下を見てみました:
「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展:学芸員レポート」
http://artscape.jp/report/curator/1212214_1634.html

菊畑茂久馬なる人物にも注目されます。

正木基という名物学芸員による原爆展、今からでもいいので、改めて企画の俎上に載せて欲しいですね。


土門拳の写真は、そもそも写真というジャンルのものは、見たことがほとんどありません。

「弁当を持って来られない子は弁当の時間中、他の子と眼をあわさずじっと雑誌を読むという」シーンは、印象的ですね。
身につまされます。

投稿: やいっち | 2011/07/30 21:54

さとさん

一周忌の法要が終わって、今は、その後始末をちょびちょびと。
肩の荷がちょっと下りました。

自分が経験・体験してみて、その重みを実感するものですね。


故郷が夕張ということであれば、筑豊のことも、他人事じゃなく、関心が深かったのでしょうね。

小生には、炭鉱というのは、情けなくも、正直なところ、本の中の世界、歴史の中の世界でした。
五木の小説も、まさにあくまで青春の共感で詠んでいたものでした。

その五木の小説も、山本の炭鉱画などの影響も、創作の上で相当、刺激を受けたのでしょう。

「友子制度」なる制度があったのですね:
http://www.fsinet.or.jp/~kohnomai/kohnomai/index/index2-1/tomoko.html

互助・共済の制度であると同時に、厳しい現実を感じさせる制度だと思えます。
炭鉱夫には、選択の余地のない制度でもあったようです。

投稿: やいっち | 2011/07/30 22:05

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