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2011/07/19

物語の中の物語、物語の密林(後編)

 再読と言えば、今日からは、ガブリエル・ガルシア・マルケス著の『百年の孤独』(鼓 直【訳】 新潮社)を読み始めた。
 本書は、再読とはいっても、三度目である。

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→ 緑のカーテンとなるべく、ゴーヤや朝顔が順調に育っている。朝顔のツルがこんなにも伸びることに驚いている。雨が降らないので、毎日、水遣り。

 初めて読んだときは、何がなんだか、分からないままに最後まで来てしまったという、つかみどころのないものだったが、二度目に読んだとき、この小説の凄みを痛感させられた。
 ああ、マルケスは、確かにノーベル賞作家だと納得した次第だった。

 この小説(本)は、是非とも所蔵しておきたい。
 入手して、自分の本として、返却期限など気にせず、じっくり読みたいと、二度目の読了のあと、いつしか感じるようになっていた。
 過日、ようやく望みが叶ったわけで、今日から真新しい頁を繰っているわけである。


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← ガブリエル・ガルシア・マルケス著の『百年の孤独』(鼓 直【訳】 新潮社)

 マルケスの『百年の孤独』も、オースターの小説とは違った意味でだが、物語に物語が折り重なるように描かれていく。
 同じような(実際に、ある一族の歴史が物語風に描かれているので、名前だけだと同じ!)名前の人物が何人も登場する。

 最初は誰が誰だか分からず、戸惑うようだ(実際、アマゾンの密林に迷い込んだような感覚を味わった)が、描かれる誰であっても、自分は自分なのだが、同時に、人間は一族の中の誰かであり、もっと言うと、コロンビアの荒野や密林の中、錯綜する人間たちの中に自分が、個でありながら多種多様な人物群像の海に溶解していくようであり、他の思いが自分に乗り移り、あるいは自分の執念が他人に深く影響し、人の思いの単純ならざるを、アマゾン河の大いなる流れの中で実感させられていく。

 人が感じる孤独は、人が個であるがゆえなのだが、同時に、孤独というのは、人が他との関わりへの希求の念を持つが故だとも思い知る。
 その個の思いには、自覚的に、あるいは思わず知らず、一族や夫婦や親子や仲間との関わりなしにはありえない。
 というより、だからこその孤独なのだ。

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→ 草むしりがてら、庭を見回っていたら、表の庭の一角に、アガパンサスの花と同色の、しかし違う花が咲いていることに気づいた。死角にあって、今日になって気づいた。それにしても、ムラサキツユクサ、アガパンサス、そしてこの花と、紫系統の花が我が家の庭に多いのは、なぜなのだろう?

 つまり、追い詰められ切羽詰って初めて、自分が自分を愛する以上に、身内の誰か、仲間の誰か、愛しい誰かを、胸が痛いほどに愛していると気づく。
 しかも、その愛が届かないし、理解されないとも思い知る。
 それでも、人は大河のような情念の海へ己の思いを横溢させて、生き、死んでいくしかないのである。

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