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2011/07/22

デジタルな時、アナログな時(前編)

 もうまもなく、テレビのアナログ放送が終了する。
 我が家には、父母が長らく視聴してきたアナログテレビがある。
 まだデジタル対応していない。

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→ 車道に面する細長い花壇に植えたヒマワリが、とうとう3本そろって、満開となった。生憎の曇天の空だが、それでも、満面の笑顔である。

 対応するかどうするか、迷っている。

 古いからと言って、今のテレビを捨てはしないが、デジタル対応させるのに、躊躇いを感じている。
 迷っているというのは、アナログへの愛着…という深い意味合いがあってのことじゃなく、国の都合でデジタルへの移行を推進する、その遣り方に違和感を覚えているだけである。
 

 そんな中、ふと、十年ほど以前、「デジタルな時、アナログな時」なる雑文を綴っていたことを思い出した。

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← 朝顔を巡って、一昨日、小文を綴ったが、朝顔がこんなにも勢い良く育つとは、想像を超えている。

 アナログ放送が終わり、デジタルへ移行する今、改めて読み返してみた。
 まあ、どうってことが書いてあるわけじゃない。
 アナログな感性を懐かしんでみただけである。


デジタルな時、アナログな時

 いつだったかラジオで音楽プロデューサーが仕事であるという、斯界ではベテランの誰かが昔の音楽製作の苦労やエピソードを語っておられた。
 彼が特に活躍したのは、楽曲を聞くといえば(音楽会などの生の場はともかく)LPあるいはSP盤のレコードをステレオで針を下ろして聞いていた頃のことである。つまり、70年代から80年代の半ば頃までとしておこうか。
 尤も、まあ、80年代の終わり頃までは、大体、そんなものだっただろう。けれど、 80年代の末頃には、音楽シーンは大きく変貌し始めていた。

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→ 朝顔は、あっさりネットの天辺に達し、軒の梁に絡み付いている。そのうち、軒の庇の上に迫り出すに違いない。撮影したのは、昼前なので、朝顔の花の元気よさが撮れていないのが残念。

 その典型はアイドル像の変貌振りに見られる。でも、ここではアイドル論などをやる気はない。
 昔の音楽製作は、生のバンド(それも時にはオーケストラほどの規模になることもある)を従えて歌手が、マイクや録音装置や大勢のスタッフを前に、一発勝負で歌うわけである。
 少しでも音程を外したり、タイミングが合わなかったり、あるいはバンドの演奏がいまいちだったりすると、その瑕疵となる部分だけを録り直すというのではなく、全くの最初から全部をやり直す羽目になる。
 歌手もスタッフもバンドも、みんな緊張と集中の極で録音していたわけだ。

 そして小生のような聞き手は、LP盤などを、その表面の埃を注意深く払い、なんとか購入したステレオで、針をそっと下ろし、やがて流れ出す音や曲や歌の世界に聴き入るのだった。時にはレコードに傷があるのか、それとも、埃のせいなのか、あるいは針自体に問題があるのか、曲が飛んだり、妙な雑音が入ったりする。
 勿論、興が削がれるわけだけれど、それはそれで仕方ないと思っていた。それとも、いつか、もっと完璧な装置が現れることを夢見たこともあったかもしれない。

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← ゴーヤと朝顔による緑のカーテンの出来具合は、こんな感じ。きっとまだまだ育つ。今に窓が見えなくなるに違いない。

 さて、時代が変わり、アイドル像も、まるで機器の変化に見合うかのように変化していった。優れたプロデューサーがアイドルを完璧に演出して、私生活までも制約して、アイドル像をファンらの前に創出する、そんな時代は遠いものとなった。
 どこかに曲の中に描かれる少女や少年像そのままの青春像があるかのような幻想は、すっかり消え去ってしまった。なるほど、歌に歌われた、あるいは歌い上げた世界は虚像に過ぎなかったのかもしれない。けれど、その虚像に酔い、虚像に憧れたりもしたことも事実なのだ。
 が、上記のプロデューサーの方も語っていたが、恐らくはおにゃんこクラブが話題をさらった時から、音楽シーンが大変貌したのである。

 アイドル達は素顔をファンの前に次第に平気で曝すようになった。決してプロダクションに指示され虚構されたアイドル像ではなく、実像に近い私生活もファンに話題として提供されるようになった。
 このことの意味するものについては、ここでは触れない。

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→ マンデビラの育ち具合は、さすがにゴーヤのようにはいかない。やはり、観賞用だった。緑のカーテンは、完成しても、窓の半分を覆うだけになりそう。

 その歌謡曲(や演歌)全盛のシーンの終焉に平行するように、音楽収録もアナログからデジタルの時代へと移り変わっていった。
 小生はCD(デジタル録音)がいつ登場し始めたのか、正確な年月は知らない。単純に80年代の終わりか90年代の初め頃と覚えているだけである。
 デジタル録音となって、変わった大きな要素は、収録の方法の変化である。編集が容易になったということ、というより、編集そのものが大きなウエイトを占めるようになったといったほうがいいかもしれない。
 そこでは必ずしも歌手とバンドがスタジオに一緒にいる必要性も必然性もない。一緒にいればそれはそれでいいが、いなくてもいい。また、比重が編集に移ったことで、歌手が昔に比べれば収録ミスのプレッシャーも掛からずに、プロデューサーのオメガネに叶わなければ、幾度でも、その部分だけやり直すことができる。
 また、曲を何層にも重ね録りすることも容易である。場合によっては、何十層にも音を重ねて、音の深みや厚みを聴取者に感じさせることも可能だ。小生の好きなアイルランドの歌手エンヤも一人で録音し編集し、一つの音を百回も重ねることもあるという。

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