憂鬱な梅雨そして夏の始まり(前編)
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「富山市の市街地随感」などで、我が富山市の町並みなどについて、あれこれ印象風な雑談をしてみた。
わが町ながら、好きな町ながら、何かしら、面白みに欠ける憾みがある。
何故なのか。
← 我が家の庭先の大きな甕に育つハスに花(蕾)が生っていることに、昨日(日曜日)気づいた。我が家のハスに花が咲くだなんて、びっくり。初めてみた光景だ。どこか古代ハスの雰囲気が漂うような。
古代ハス二千年の夢と咲く (や)
上掲の記事などで縷々、愚痴ってみたが、ふと、他にも理由があると気づいた(といっても、正解かどうかは分からない。あくまで小生の印象に過ぎない)。
それは、街中、市街地に森が少ないこと(親水公園や稲荷公園などがあるが)、そして、街路樹がやや貧弱なこと、である。
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そのトカゲは、庭の縁石の上で、一端、動きを止めた。
石の上が日当たりがよくて、それでつい止まった、というより、小生の巨大な影の動きを観察したものと思われる。
→ 今朝、表の通り沿いの花壇に育つゴーヤなどの様子を見に行ったら、竹垣の藪(?)の中に何か、白っぽいものが。気になって覗き込んでみたら、花々が咲いているのだった。生い茂る葉っぱの陰で目立たなかった。何時から咲き出したのだろう。
小生がポケットからデジカメを取り出す、その気配を感じたのか、すぐに動き出し、草むらの中へ姿を消し去った。
その動きの早いこと。
俊敏さに驚かされた。
天気がよくて、体も温まっていて、俊敏さに繋がっていたのだろうか。
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過日より、折々、ニホントカゲのことを話題の遡上に載せている。
小生、ヘビもだが、(ニホン)トカゲなど、爬虫類の類は、あまり好きじゃない。
ただ、我が家の庭に出没するとなると、それはそれで別の感情も湧いてくる。
← 四月末、我が家の庭で初めて見かけたトカゲ。
悲しいかな、小生が子供のころ、我が家の庭や軒先、軒下などでトカゲを見かけたのかどうか、ほとんど…いや、全く、記憶にない。
ヘビについては、幾つか思い出というか、今もややトラウマになっているようなエピソードがあったりするのだが。
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東日本大震災で被災された方たちが、「今回の震災で、電気や水道、生活上の利便性など、当たり前に享受していたものが、決して当たり前じゃなかったと気づかされたとか、家族や友人・知人、近所とのつながりや絆の大切さを再認識させてもらったとかいった話」をするのは、厳しい避難生活などの生活からの実感だろうから、ただ聞き入るばかりである。
→ 3本、植えたマンデビラのうちの1本に、蕾! ツルもかなり伸びている。
しかし、直接の被害を受けていない人たちが、節電の要の高まりなどを受けて、あるいは大震災の光景を見て、まるで未曾有の大震災であるかのように語られるのは、繰り返しになるが、違和感…というより、反感をすら覚える。
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日本は今、戦後、類を見ない震災に見舞われた。
戦後に限らず、日本の近代以降の歴史の中でも指折りの事件の渦中にあると言えるだろう。
→ 我が家の裏庭にある納屋の前から、夕景を撮ってみた。眼下には、水田があり畑がある。
東日本大震災が、それほどに未曾有のものであることは否定のしようがない。
しかし、テレビなどで、被災民じゃない人たちが(インタビューに答える形で)、今回の震災で、電気や水道、生活上の利便性など、当たり前に享受していたものが、決して当たり前じゃなかったと気づかされたとか、家族や友人・知人、近所とのつながりや絆の大切さを再認識させてもらったとかいった話を聞いたりすると、やや違和感を覚える。
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思うに、その病院は、表の週日の玄関口と、裏の救急や通用口の並ぶ一角とを分ける、建物の角のあたりに、土日・夜間の出入り口はこちらですという、看板を立てかけておくべきなのだ。
← 08年当時、同じ紫陽花の開花の光景。今年は紫陽花の花が咲かなかったので、例年のように綴る紫陽花絡みのエッセイも書く気になれない。
知らない人が、わざわざ表へ向かわずとも、その看板表示を読んで、裏の通用口へ向かえるようにすれば、戸惑う方の数もグンと減るだろうに。
いずれにしろ、その病院での待機は空振りに終わった。
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富山県は、今、大きく変貌を遂げつつある。
その目玉は、あるいは変化の起爆剤となる(かもしれない)のが、北陸新幹線の延伸である。
「北陸新幹線は、上信越・北陸地方を経由して東京都と大阪市とを結ぶ計画の整備新幹線である」。
↑ 先ごろ決定した新しい富山駅のデザイン。北陸新幹線の延伸にあわせ、デザインが決められた。「静謐な雪にたたずむ木立の駅」だって! 確かに清潔感が漂うが、地味で印象が薄そう。新幹線の窓から眺めるにはいいが…。駅の直下をライトレールが通過する。今は駅の北側、南側それぞれにあるのを接続する。小生など、むしろ、ライトレールの延伸に期待している!
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ネットで、「アヴェ・マリア - Wikipedia」の頁を覗いても、興味ある記述は見出せても、今日と言う日との関連など、どこにも書いてなかった(書いてあるはずもないのだった)。
→ 裏の内庭を内側から撮影。竹垣にはバラなどが育っているが、表から見えないこの一角には、ドクダミそしてササ、棕櫚、紫陽花、南天などなど。
一部だけ、転記すると、「アヴェ・マリア (Ave Maria) は、ラテン語で直訳すると「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味する言葉。転じて、この一文にはじまるキリスト教(特にカトリック教会)の聖母マリアへの祈祷を指す」とか、「この祈祷のための教会音楽や、祈祷文を歌詞にした音楽作品なども意味し、例えばグレゴリオ聖歌の他、ジョスカン・デ・プレ、ビクトリア、グノー(J.S.バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1巻》の前奏曲ハ長調を伴奏に借用)やロッシーニのものなど、枚挙にいとまが無い。また、アルカデルトやシューベルトのように、もともと世俗曲でありながら、後世に「アヴェ・マリア」として通用するようになった楽曲も存在する」云々とある。
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南に面する車道沿いの細長い花壇に、緑のカーテンを着々と(?)作成中である。
一昨年、大成功を収めたので、夢よ、もう一度、というわけだ。
ただ、一昨年は、ゴーヤに加え、ヘチマを植えた。その両者の強力なコンビで、磨りガラス窓の中の、当時の小生の居住する部屋は、快晴の真昼間でも電灯が必要なほどだった。
→ 蔵も南面の車道沿いに面して建っている。石垣(?)直下に、ススキのような植物が群生し始めた。でも、ちょっとススキとは違うようでもある。
今年は、今のところ、ゴーヤとマンデビラと朝顔を植えている。
ゴーヤはともかく、マンデビラと朝顔は、成長ぶりからすると、緑のカーテンには、ちょっと及ばない予感が濃厚である。
やはり、ヘチマの苗も植えるべきだったか。
今からでも、間に合うのか…。
なんて、思っていたら、数年前、「ヘチマのこと」なんて駄文をつづっていたことに気づいた。
当時は東京在住で、その数年後、富山に帰郷し、小生の部屋の外にゴーヤやヘチマのカーテンをめぐらすなんて、夢にも思わなかったっけ。
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一応は正業に就いたので、時間的な余裕は前ほどはなくなっている。
図書館へもこの二月以来、行っていない。
十日に一度くらいは、通えるかもしれないが、返却は時間外の返却ポストの利用となる。
← マリオ・バルガス=リョサ/著『世界終末戦争』( 旦敬介/訳) 「19世紀末、大旱魃に苦しむブラジル北部の辺境を遍歴する説教者と、彼を聖者と仰ぐ者たち。やがて遍歴の終着地に世界の終りを迎えるための安住の楽園を築いた彼らに叛逆者の烙印を押した中央政府が陸続と送り込む軍隊。かくて徹底的に繰返された過酷で不寛容な死闘の果てに、人々が見たものは……」といった本。ずっしりとした読み応え。旦敬介氏の解説もいい。バルガス=リョサはペルー生まれのノーベル賞作家。昔、あったはずの本だが、書店で奥付けを見たら、2010年の刊行となっている。復刊だったのだ。ノーベル賞受賞ということで、急遽の復刊なのか。これほどの作品なのに。小生は、昨年来、『チボの狂宴』、『緑の家(上・下)』など、リョサ付いている。本書『世界終末戦争』を読んでいて、マルケスに劣らず本格的な作家だと、つくづく実感させられている。
それはそれでいいのだが、問題は、音楽CDの返却である。
CD類は、返却ポストは使えない。
となると、CDを借りること自体が、億劫になる。
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今日6月11日で、あの大震災が発生した日から三ヶ月となる。
被災地の苦しみは、まだまだ続いている。
先の見えない状況が続いている。
← 裏の庭の隅っこに大きな甕。いつごろから置かれているのか、記憶に定かではない。雨水が溜まり、春先からハス(だろうか)が密生し始める。これらのハス、大きな池に浮かべたら、もっともっと育つのだろうが…。
その被災にあまりに過酷な黒い影を落としているのが、東電の福島原発の事故である。
原発の事故がなければ、もっと全力投球で、しかも集中して被災地の復旧・復興に当たれているはずなのに、原発の現在も沈静化の目処のつかない事故は、放射能汚染だけじゃないその黒い雲で日本に、世界を覆っている。
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一昨年の日記に「ど根性雑草とは呼ばれない」と題したものがある。
→ カエデ、だろうか? 縁側のコンクリートの踏み台の段差の透き間に生えてきた。わざわざそんなに窮屈な生き方を選ばなくてもよさそうなものなのに。
これは、ど根性カエルと、一頃、話題になった「ど根性ダイコン」とを意識しミックスした題名の記事で、道路の亀裂などから生えてくる、執念でもって育つ雑草を話題に採り上げたもの。
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この二日ほど、富山は晴天。風もそんなに吹いていないので、時間が許されるなら散歩日和。
昨日は仕事だったが、今日はオフ。
となると、散歩…、じゃなくて、草むしり。
→ 我が家のツツジが、ようやく咲き始めてきた。近所のツツジは、盛期を過ぎ、花は完全に萎れてしまっている、というのに。
昨日の日記にも書いたけど、庭の草むしりがひと段落したと思っていたら、畑が悲惨な状態に。
日曜日は、前日の土曜日も休みだったので、午前中、三時間を費やして、畑の草むしり。特にドクダミ退治に没頭した。
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三月の終わりから四月、五月の連休の頃までは、畑の草むしりに没頭していたが、このところ、ずっと主に庭などの草むしりに勤しんできた。
畑は1アールもない狭いもの。
それに比べ、庭は多分、合計したら百坪以上はある。
← バラの花がようやく半開きの状態に。よその家は、とっくに満開になっているのに比べ、我が家の花々の開花は遅いし勢いがない。それでも、ムラサキツユクサやかつてのジャーマンアイリス、アヤメなどの紫の庭だったのが、ツツジの白やピンク、赤に加え、バラの深紅が加わって、ようやく華やかな雰囲気が漂ってきた。
それも、一面の庭というものじゃなく、表の庭(コンクリート舗装された車道で分離されている)、内庭、裏の庭、裏の庭に続く回廊の庭、裏の小道沿いの細い庭、南側の車道に面する細長い庭というより花壇と、細々と入り組んでいる。
人が歩くだけの、草木の全くない(あっては困る)庭については、除草剤を撒く。
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春先に畑に蒔いた種は、野菜も花も、ことごとく芽を出さないままに六月を迎えてしまった。
シソも枝豆もネギもダメ。鳳仙花やコスモスなどの花々も幻の夢と費えた。
そんな畑を今日、草むしり。
← 我が家の庭を占有しつつあるドクダミ。花(のような総苞片)の咲く光景を眺めている分には、可憐に映ったりもするのだが。
何も咲かない、育たない畑だが、ドクダミだけが勢い良く蔓延っていて、放っておくと、ドクダミの畑と化しそう。
なので、ドクダミを7列ほどある畑の一列だけに止め、他の列には移らないよう、今日の草むしりは、雑草の除草と共に、ドクダミ殲滅作戦と相成った。
が、ドクダミの根っ子は深い。我が畑の病巣も深いわけである。
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富山でまた、「「牛角高岡店」でO157 20人が食中毒症状」といった事件が発生した。
→ 表の庭の隅、隣家の壁の際に、萩の木が育っている。今夏は花を咲かせるだろうか。
「富山県は2日、焼き肉チェーン店「牛角高岡店」(高岡市)で食事をした客20人が下痢などの食中毒症状を訴え、うち15人から腸管出血性大腸菌O157が検出されたと発表した。重症者はいない」というもの。
その後、「焼く前の生肉に触れた箸が危ない」といった続報があった。
また、富山で!
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夜になっても雨は止まない。
そんな夜の賑わいぶりはどうだったのか、小生は自分の目では、確かめることはできなかった。
← 我が家のバラの木は一本だけ。かなり立派に育っている。ただ、花が咲かない。小生には、バラを巡る小文も数々ある:「薔薇の芽それとも青いバラ」「薔薇は夢に似合わない」「冬薔薇(ふゆさうび)」
営業しているわけだし、普段なら市街地を走り回るはずなのだが、一日は、小生は、富山空港の当番の日に当たり、夜の九時過ぎまで、富山市の市街地は通り抜けるだけの状態だったのだ。
空港当番の日とは。
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← 雑草なのだろうが、なにやらゆかしい植物である。綿毛のような、蔓延りすぎたカビのような、この白いフワフワしたものは、何なのか?
今、東京には雨がシトシト降っている。梅雨の雨を思わせる憂鬱な降り方。でも、その雨が屋根を叩き、欄干を叩いて濡らし、裏庭の雑草を潤している。その水の一滴一滴に宇宙を感じる人は、きっと、どんな音楽や数学より繊細の宇宙を予感しているに違いないと思う。
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