まだまだ芽吹きの春(前編)
一昨日、昨日と、「芽吹きの春を実感する(前編)」「芽吹きの春を実感する(後編)」と書いてきた。
しかし、やや藪っぽい我が家の庭だけに、まだまだ芽吹きの現場に遭遇する。
→ ジャーマンアイリスだろうか? 一昨年までは、我が家の庭や畑の隅っこに咲いていた。それが、昨年、全く姿を見せなかった。昨年は、庭も畑も夏ごろまで(父母が亡くなるまで)、全く手付かずだったから、荒れ放題だった。夫婦のキウイも昨年、とうとう枯れてしまった。一昨年まで、あれほど勢いの良かったキウイは、どうして枯れたんだ?ジャーマンアイリスなのだとしたら、庭のあちこちに育ち花が咲きそうなのは、なぜなのか。土を移動した際に、球根も伴ったのか。それにしても、どの花に勢いがない。土日の風雨にめげた? 土壌の貧困さのせい?
← 石楠花の花が今年は開花してくれそう。昨年、楽しみにしていたのに、全く咲かず、ガッカリしていた。昨年、死滅したキウイなどと共に、父母の不幸を予感していたのだろうか。画像がややぼやけているが、強風でカメラの焦点が合わなかった。蕾の状態。撮影したのは、5月1日だが、今日3日、庭を見て回ったら、見事に開花していた。その画像は、5日には載せられるだろう。
→ 車道沿いの花壇の雑草を毟っていたら、恐らくは雑草なのだろうけど、可憐な小花を発見。毟る気になれず、とりあえず放置。雑草と、そうでない花との違いは何なのか。意図的に植えたものが花で、そうでないものは、花が咲いても、雑草の扱いなのか。よく手入れされた庭、たとえば、由緒あるお寺の庭など見ると、素晴らしいと思う。でも、きっと日々手入れしているのだろう。雑草だって、目に付いた先から始末してしまうのか。お寺の人は、雑草と、いわゆる愛でる花との区別(差別)の際の物差しをどう考えているのだろう。
← 表の庭の松の木。勢いよく芽吹いている。生命力を感じさせるのはいいけど、今年も剪定に悩まされることを思うと、眺めるのが憂鬱にもなる。父が、あるいは雇った庭師が、庭木の手入れをしていて、以前は、立派な松だったのだが。今冬は、初めて、雪吊りを全くしなかった。なので、随分と痛んでしまった。それなのに、格好の良し悪しなど関係ないとばかりに、育つ、育つ。
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