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2011/05/15

胡蝶の話を庭先で

 つい先日、降り頻る雨の日のこと、我が家の庭で蝶々を見た。
 蝶々を見るのは、今の季節となると、さほど珍しいことではない。
 トカゲやカエルなどと並んで、蝶々が我が家の庭にもいる…。

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← 今日の拙稿の主役は、この蝶々。なんでもない光景のようだが、ちょっとしたドラマを演じた果ての、一服のひと時の姿なのである。

 珍しくもなんともない話である。
 奇妙なのは、雨の日だったからなのである。
 蝶々の羽は、本体に比して大きい。
 その羽が濡れたら、(蝶々の生態など、何も知らない小生だが)ちょっと飛ぶのに難儀だろうと思われる。

 実際、蝶々を見かけたのは、雨水が庭の隅をドーと流れる、まさにその流れの中だった。
 溜まっていた枯れ葉とコンクリートの駐車スペースとに挟まれ、あるいは、垂れて水流に達している水仙の葉っぱなどのため、急流となって流れる雨水の流れが緩和している一角があった。蝶々は、そのボトルネックになって流れが緩やかになっていた、そのお陰でずっと先まで流されずに済んでいたのだ。

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→ 最初に蝶々に気づいたときは、こんな様子。何故か、(駐車スペースの)コンクリート路の角に蝶々が。白っぽいコンクリート面の上に黒い体躯ということで、たまたま気づいたのだ。

 ふと、数年前に書いた、里山に絡む「冬の蝶」なる拙稿を思い出した。
 五月も半ばだし、冬の蝶のことを連想するはずもないのだが。

 それに、我が家の庭など、里山になれようはずがない。
 でも、蝶々にとっては、田圃や畑や土の庭は、住宅地にあっては、貴重な里のはずなのである…、きっと。


冬の蝶

 今や失われつつあるという里山だが、それでも探せば見つかるのだろう(か)。
 その里山に分け入っていくと、冬だと蛹、あるいは卵の状態の蝶に出会えることもあるのだろう。
 そういえば、遠い昔、郷里の町の未だ宅地になっていなかった藪の木肌などに蛹を見つけたりしたものだった。

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← その蝶々、雨水の急な流れに落ちた! そう、蝶々は、きっと、激しい雨に打たれ、コンクリートの路面に叩き落されたのだ。

 興味津々というより、どちらかというと何となく不気味な感じを受けたような記憶がある。成虫になれば可憐だったりする蝶々も、幼虫とか蛹の状態だと、愛らしいというより、敬遠したくなるような雰囲気が漂っていた、少なくとも自分はそう、感じていた。
 尤も、鳥などに喰われないよう、人間のみならず他の動物にも目立たないよう、地味な、時に不恰好な、しかし、無用心な姿で冬の時を過ごしているのだろう。

 あるサイトによると、「このキタテハを始め、タテハチョウのいくつかは成虫で冬を越します。だから、冬でも暖かい日には飛ぶこともできる」という。但し、成虫の姿だけれど、実際に飛ぶのは、暖かな日に限られるようで、「冬のほとんどの日は、茂みの中や、稀に農家の軒下などで翅をしっかり畳んで、じっとしている」というのである。

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→ 蝶々は、流されまいと、必死に泳いでいる…、ジタバタ足掻いている。念のため、断っておくが、普段は土の庭である。何処かの小川などではない。

 冬の蝶、何か幻想的な感がする。季語としても人気があるのは、小生なりに分かるような気がする。小説のタイトル、乃至は、テーマを象徴する言葉であり、同時にしかも決して完全に幻想なのではなく、実際に自分は見なくとも誰から見た現実である、めったに我が眼では確かめることの出来ない、その意味で歯痒い幻想的な現実。

 小説の書き手なら、何かしら掻き立てられるものを感じないとウソのような気がする。小説でなくとも、短歌や俳句などでは冬には挑戦したくなるテーマであり言葉であり、夢の中のような、しかし厳然たる現実でもあるのだ。


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← やっとのこと、庭の隅に群生する水仙の葉っぱが、雨水に垂れて、水流にまで達している、その葉っぱにしがみつくことができた。

 蝶々というのは、その存在自体が幻想的である。そう、めったに見られない冬の蝶に拘らなくとも、春の麗らかな陽気の中、菜の花畑の日溜りの中などを蝶々がフワフワ飛んでいる姿を見かけると、それだけで、胡蝶の夢を思わせてしまう。

 ただ、胡蝶の夢で肝心なのは、「知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん」という件(くだり)の先、「此れを之れ物化と謂ふ」にある。ここから先は、夢見気分では追随できない思弁の世界に分け入る。
 いざ、踏み込んでいくとなると、ちょっとした覚悟が要りそうである。

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→ 水仙の葉っぱにしがみついて、攀じ登ろうとするのだが、何度も何度も滑り落ちる。蝶々の腕(脚?)の力では、雨に濡れて重くなっている、大きな羽や体を支え登るのは、至難の業なのである。しかも、雨の勢いは激しい。羽の燐粉など洗い流されているに違いない。羽を羽ばたかせて浮力でもって体を相対的に軽くして、一気に細長い葉を登り切るなんて、論外のようである。それくらいなら、とっくに飛んでるよ!って、見物する我輩に悲鳴にも似た罵りの声を投げ掛けるだろう。一時は、葉っぱを攀じ登るのを諦めたのか、水仙の葉っぱの裏にぶら下がり羽を閉じ、降り注ぐ雨滴という名の礫(つぶて)避けていたりもした。そんな悪戦苦闘の果て、やっとのこと、冒頭のような状態に至ったのである。…小半時して、気になって、その場所に戻ったら、もう蝶々の姿は何処にもなかった。そんなドラマがあったことさえ、夢のように、ただ、雨が降るばかりだった。

 

 「胡蝶の夢

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。

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