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2011/05/31

素数という自然(前編)

 僅か5年前に読んだばかりなのに、とても新鮮な感覚で(初めて読むような新鮮さで!)読むことが出来た。
 日記でも書いているが、車中での待機中に読んでいたのだが、あまりに面白く、半分を読んだところで、残りは自宅で一気読みしてしまった。

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→ 我が家の庭木に咲く花。地味な花で、通り過ぎる人は誰も見向きもしない。

 著者の表現力の妙はもちろんだけど、小生の記憶力の減退ぶりに、感動をさえ、覚える。
 まあ、小生のこと、時には一年も経たない以前に読んだばかりなのに、図書館で借り出す際、前に読んだっけ、未読だったっけと悩むこと、しばしばなのだから、今更驚くようなことじゃないけど。

 本書を読んでの感想は、数年前とそれほど違わない。当時の日記を読み返すと、やはり、題名に(も)惹かれた、なんてことを書いている。
 数学者たちの素数を巡る挑戦のドラマは、下手な小説よりずっと面白い。リーマン予想の証明に人生を賭け、そして人生を棒に振った数学者のなんと多いことか!
 数学的内容について、小生ごときが説明するのもおこがましい。

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← マーカス・デュ・ソートイ/著『素数の音楽』(冨永星/訳 新潮社) 「奇妙で、法則性さえないかのように見える不思議な数、素数。だが、幾世紀にもわたる天才たちの闘いは、その深い謎の向こうにときおり美しさを見出すことすら可能にしていた……。多くの数学者たちが取り憑かれた21世紀最後の超難問「リーマン予想」をめぐる麗しくもスリリングなノンフィクション」といった本。

 以前の感想文では、素数を巡る想像から、宇宙や自然への畏怖の念を綴っている:
  

 本書『素数の音楽』のブックレヴューによると、「2,3,5,7,11,13…規則性があるようで、気まぐれな振る舞いで数学者を惑わせる素数。「数の原子」と呼ばれるこの素数に取り憑かれた数学者は数多い。大数学者ヒルベルト、「数学界の貴族」ボンビエリ、「魔法使い」エルデシュ…。「フェルマーの最終定理」以上の、世紀をまたぐ超難問「リーマン予想」を軸に、変人から天才に到る数学者たちの横顔と挑戦を描くノンフィクション。 」とある。
 何と言っても、題名の『素数の音楽』が魅惑的である。
 芸術の頂点に君臨するのはどの分野の芸術なのか。絵画などの二次元アートか(書道はアートに含めていいものか、漫画はアートか娯楽か)、彫刻か、音楽か

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→ これも我が家の庭木に咲く花。別に人間どもなどに気づかれなくたって構わない…。
 

 比べること自体がナンセンスなのは言うも愚かだけれど、それでも、小生の中では音楽か数学のどちらかだと思っている。というより、もっと率直に言うと、数学に極まり、と勝手に思い込んでいるのだ。
 小生の手には(感性にも知性にも)全く届かない世界であって、その沈黙の音を想像するしかないのだが、まして「素数の音楽」となると、垂涎の世界が描かれているわけである。
 数学は実用的でも応用を目ざしているわけでもないが(そうはいっても、実用や応用を全く度外視して研究していた素数に関する理論が、インターネット自体のセキュリティに密接に関わっていて、素数の神秘や未だに極めつくせない素数、さらには数論の世界の手ごわさがネット世界において厳然と、そして断固として実用的たる存在になっている。その意外性も面白い)、素数の、特にリーマン予想という一世紀以上に渡って行く手を阻んできた課題を解こうとして編み出された理論が量子力学で捜し求められていた理論(数式)において有効に使われるなど、純然たる数学の世界が物理の世界と高度に抽象的な場で出会う話は心躍らせるものがある
。   

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