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2011/04/04

「無限」に魅入られた天才数学者たち(後編)

 そもそも、西欧人ではない我々日本人でも、無限への憧れや好奇心がなかったわけではなかろう。しかし、あまりに安易に「自然」に親和する心性のせいか、無限を論理的に構築的に探求することはほとんどなかったようである。

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→ 我が家の庭には、何本かの山茶花がある。そのうちのこの一本は、今頃になって開花し始めた…。と思ったら、おやっ、背後にちらっとピンク色の花が ? !

 木の葉の裏を伝い降りる一滴の雫。その小さな雫の中に、汲めども尽きせぬ豊かなものを予感することは、古代の人も我々も共通するようである。
 が、何処か明晰なる自然探求ではなく、情緒に流れる心性を養ってきたようである:


 我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(万葉集)

 別にそれが悪いというのではない。ただ、八百万の神々を自然に見出し感応する心性は、無限への探求には到底赴かなかったということを思うだけだ。どこか、そんな突出したことをやっても、所詮は儚いこの世という無常の意識が、既に遠い昔から物事を極める精神の発達を阻んできていたのだろうか。

 そういえば、前にも何処かで書いたのだが、星や月などの天上の世界を歌う歌も万葉集に限らず少ない。数少ない例外で好きな柿本人麻呂の歌をここでも例示しておこう:

 天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ(万葉集)

 この歌も、「夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士(つきひとをとこ)」と同様に織り姫をいつまでも待つ彦星の心境を、重ねて理解すべきなのだろうか。それとも、雄渾な感動を素直に受け止めていればいいのだろうか。

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← そうだ、間違いなくピンク色の花。これも山茶花なのだろうか。この頃になって開花し始めたので、ピンクの花だとは気づかなかった…のだろうか。

 ただ、いずれにしても、中国から占星術も含め、天蓋を長年にわたり研究し記録する天文術を学んだはずなのに、独自の発展を遂げた形跡は見られないように思えるが浅学な小生の誤解に過ぎないのだろうか。
 どちらにしても、徹底して論理的に探求する精神は、日本の土壌には育たなかったようである。むしろ、微妙な感性の醸成にひたすら努めてきたのかもしれない。そしてそれは縄文以来の伝統に根ざすものであり、どこかしら風土との絡みを暗示するものなのだろうか。

 それに引き替え、西欧や西南アジアでは無限との哲学的宗教的格闘は、とことん行われてきた。
 実は、本書では、ユダヤ教のカバラを扱っている。カバラとは、ラビ・アキバが体験した瞑想に淵源するユダヤ神秘思想である。「カバラとは、" 受け取られたもの " すなわち伝統という意味である。カバラは秘密の教えであり、時間を超越した霊的知恵を口から耳へと直に伝授するものだった」。


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→ となると、やはり、接写したくなる。間近に寄って、花を大写し!

 そのカバリストにも、「神はあまりにも大きく、あまりにも高く、言葉によって説明することはできない」
 しかし、そうした存在者を記述する可能性をもつ唯一の、カバリストたちに与えられた呼び名、それが"エン・ソフ"である。エン・ソフとは、"無限なるもの" を意味する。神は無限なのである。

 無論、無限なるものである神は理解不能である。しかし、その有限の側面は垣間見ることができる。鉱物などの身近な自然物から次第に次元の高い存在まで、無限の階梯をカバリストは考え尽くそうとしたのである。

 神への無限の階梯。ユダヤ人の数多くの天才たちの妥協を許さない思考は、神の凄まじい光に照らされ炙られて、時に世俗のどんな常識や伝統やモラルにぶつかっても決して挫けることを許さない。
 しかし、無限の階層を幾重に登っても、その無限にはさらに巨大な無限がある。その無限の連鎖に終わりはない。最大の無限は見えないのだ。多くの天才数学者や哲学者は無限の淵で狂気と背中合わせになりつつも、神への愛と畏敬の念ゆえに立ち止まることはしなかったのである。

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← ジョン・D.バロー著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社) 昨日も紹介した本書については、拙稿「無限の話の周りをとりとめもなく」を参照しちゃう?

 この精神は日本人には見られないものなのではないか。

 しかし、一方、日本には日本の土壌や風土に根ざした徹底の精神が生まれ育ったものと推測している。砂漠の思想。ほとんど常に陽光に炙られて、太陽と直に、あるいは星や月と直に対話する精神。風土を変容させるものというと、岩の巨大な塊である丘の連なりくらいのものという地平線の思考。

 一方、四季の変化が明瞭であり、苔と黴と雑草に悩まされる風土、緑為す山々の連なりと海に四囲を限られた世界の思考が砂漠の思考と同様でありえるわけもない。

 情緒に傾きやすいという日本人の心性は、平安以降の和歌などに醸成されたものなのだろうか。そうは思えない。むしろ、全く逆で、奈良や平安という画期には中国や朝鮮から高度な文化を輸入し、且つそれなりに移植はされたが、やがて縄文時代という長い歴史に育まれた土壌が、輸入文化を苔むし黴つかせ、図太い柱の中を白蟻が食い尽くすように、湿気た文化へと土着を果たしたのだと思う。

 その縄文文化も、雨と湿気と四季と雑草と黴と苔とに絶えず悩まされ(あるいは潤され)た人々が風土と共に育んだのだろう。

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→ つい先日までは、蕾だけだったので、開花したらピンクの花が咲くとは思いもよらなかった。なるほど、ちゃんと見たら、蕾にしたってピンク色なのである。

 さて、では、日本において、無限とは何だろう。どのような方向に精神の過剰(あるいは過剰を宿命付けられたものが精神だと信じるのだけど)が向かっていったのだろうか。目下の小さな疑問である。
 情緒というのは、案外と意味深な側面を持つのではないか、今はただ、そう感じているだけである。

                              (02/06/09原作

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コメント

命数法、億、兆、京。

そのあといろいろあって、
10の60乗あたりからが味があります。
那由他、不可思議、無量大数。
このあたりは、もう無理だよ、もう無限に接近してるよ、って単位です。

割、分、厘、
そのあといろいろあって、
10の-18乗で刹那、
10の-24乗で涅槃寂静。

この小さな小さな単位が涅槃寂静、
もう終わりだよ、って言ってます。

投稿: 青梗菜 | 2011/04/05 01:32

青梗菜さん

恒河沙、阿僧祇、那由多、不可思議、無量大数。

小生などは、恒河沙くらいでもう勘弁してよって思っちゃいます。
というか、ずっと前の段階で眩暈してる。

「大方広仏華厳経」では、最後は「不可説不可説転」

仏教ですごいのは、そんな巨大な数にも名前を付すこと。
中国語のすごいのは、梵語をすべて中国の言葉に当てはめてしまうこと。
仏典は意訳なのか、真髄を的確に表現しているのか、小生には分からないけど。


そうそう、大きい数だけじゃなく、小さな数にも名前が付されている。
分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静と計24単位!

「分、厘、毛、糸」以下の少数は、実際に実用で使われたことがあるのでしょうか。

無限がどうたらの前に、そういうすごいことを考え抜く人がいたってことに驚異の念を覚えます。

投稿: やいっち | 2011/04/06 15:43

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