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2011/04/08

早く来い、老眼鏡(前編)

 一昨日昨日と、眼鏡(顕微鏡や天体望遠鏡)に無縁でない話を書いた。
 レンズつながりというわけではないが、今日と明日の二回に分けて、眼鏡に絡む旧稿を温める。

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→ 富山も久しぶりの雨。雨の中の水仙も乙なもの。

早く来い、老眼鏡

 小生が目の衰えを感じ始めたのは、何時の事だったろう。
 最初は、自分でも現実に進行している事態に戸惑うだけだった。というより、現実を現実として認めたくなかった。
 辞書を開くのが億劫になった。新聞の活字も追うのが辛い。文庫本も、旧来の新潮文庫や角川文庫など、古いものは、読みづらい。一頁に活字がこれでもかというほどにギッシリ、詰まっている。

 それが以前は、何の苦労もなくスラスラと読み進めることができたのだ。読むのを中断するとしたら、用事があるか、でなければ、単に面白くないからに過ぎない。
 が、幸か不幸か、時代が癒しの時代というのか、人に優しいを謳い文句にする時代に小生の視力の悪化という事態がピッタリ合わさっていた。
 それゆえ、例えば新聞にしても近年、活字が大きく見やすくなった。こんなことなど、ちょっと前の自分なら余計なお世話だったろう。

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← 黄色い水仙も、雨滴にしっとりと潤っている。生憎の雨の中、今日、富山には桜の開花宣言が出された。昨日七日は、松川縁の桜並木で、一部の木が三分咲きだったのだった。

 文庫本にしても、岩波文庫も、無論、新しく登場したブランドの文庫シリーズはいずれも、活字が大きい。一頁辺りの活字の数も少ない。
 これは、必ずしも人に優しいという理念ではなくて、活字離れ、読書離れ、つまりは本離れという、特に若い人に見られる傾向に対応する結果なのかもしれない。
 ただ、たまたま小生にとっては、老眼の度の進行に合わせるかのように社会の動きも平行して変化していたというのに過ぎない(のだろう)。

 そうそう、数年前からは、ソニーから出た電子辞書のお世話になっている。広辞苑や英和辞典などを収めた電子ブックと、一昨年にはNIPPONICAを収めたカラーの電子ブックを更に購入した。

 もともと活字が液晶の画面では単行本の活字より大きいのだが、場合によっては「活字拡大」の機能を使うことで、新聞の見出しくらいの大きさにだってすることができる。漢字の細かな部分を確認するには絶好である。
 しかも、広辞苑にしてもNIPPONICAにしても、書籍の形なら場所を取って困るが、電子ブックは大き目の文庫本サイズなのだ。中のソフトも入れ替えることだってできる。

 但し、小生は、デジタル派ではない。本にしても従来型の本が好きだ。電子ブックは好まない。辞書だって本だって、実際に手にとって、頁をペラペラと捲りたいのである。殊更に手垢を付けるわけではないが、結果として手垢に塗れるなら、それも良しというのが小生の好みなのだ。

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→ 濃いピンクと淡いピンクの山茶花の間に小さな梅の木。移植して初めての雨天。今日は、水を遣らなくて済む。とはいっても、桜の季節の到来を嫌ってのように、かなりの花びらが風に散っていた。ブロック塀の向こうは、隣家。

 何年も蔵書された本が、経年により劣化していく。
 折り目のついた頁もあれば、栞を挟んだ頁もある、書き込みされた頁もあれば、何か大事なものを挟み込んだ頁だってあるかもしれない。埃を被り、部屋の中に堆積して、置き場に困るなどと呟きながらも、やっぱり紙の本を愛惜しているのである。

 ああ、これらの本も目の遠くなった小生にとっては、書棚の肥やしと化していくのか。

 しかし、現実に進行する肉体の老化の事態には敵わないのである。便利なものは、割り切って使えばいいのだ。

 このようにたまたま技術の進歩と時代のニーズとが、小生の目の弱体化の現実を糊塗することに預かっていたのだ。僥倖というべきか、皮肉なのか、現実の事態の先延ばしに過ぎなかったのか。

 当然、就寝前、部屋の明かりは消して、寝床で枕元に電気スタンドを置いて、そのスタンドの明かりだけで本を読むというのは、辛い。昔は(といっても、ほんの数年前までは)面白ければ数十頁だって、あるいは止めどなく読めたのが、今は、活字の大きな本を選んでいるにも関わらず、十頁も読むことができない。すぐ、本を手放して、瞑目してしまう。
もう、いいや、寝てしまおう、ということになる。

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← 隣家の白木蓮が、今日になって一気に開花した。今朝は、ジャンプする人が一旦、屈み込み、瞬発力のエネルギーを溜めるように、蕾が今にも開花しそうに、プルプルしていたっけ。

 部屋の明かりをちゃんと点け、手元に蛍光灯を置き、それでも足りないと本を灯りに近づけ、あるいは、小生と本との距離を調節する。
 そうやって苦労してでも本を読む。読書が好きなのだ。他に何もすることがない。駄文を綴ることをたまに試みるくらいだ。

 その読書が難行苦行になっているだなんて。

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コメント

目の衰え、私も感じます。
夫は50代になってから老眼鏡のお世話になりましたが、私はもうちょい早そうです。
まず、地図が見づらくなりました。
町名や番地の文字が小さすぎて見えないんです。
昔は難なく見えたのに…。
とりあえず、虫眼鏡で対応しています。
今のところ、小説は何とか大丈夫!
時間の問題でしょうが…。

投稿: 砂希 | 2011/04/08 20:53

砂希さん


目の衰えを感じたのは、五十歳くらいの頃から。
本稿は旧稿で八年ほど前のもの。
五十路を意識し始めたころ。

たぶん、職業病かもしれない。
薄暗い車内で地図を見る、あるいは、遠くの信号や看板を必死に見るという必要性から、目が遠くを見るのに慣れてしまった…のかもしれない。

小生も、細かい字がつらくなった最初の頃は虫眼鏡は必携でした。
でも、今は老眼鏡が手放せない。

それでも、白昼(昼間、外)だったら、何とか新聞は読めます。
ただし、若干、勘で!

投稿: やいっち | 2011/04/08 21:38

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