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2011/04/24

田中好子さんの死と『黒い雨』と(後編)

 彼女の突然の訃報にも驚いたが、もっと驚いたのは、以下の事実だった:

死去直後の記者会見において、結婚翌年の1992年(平成4年)に乳がんが見つかり、幾度か再発を繰り返したが、いずれも早期発見で治療を続けながら芸能活動を続けていたことなどが夫の小達一雄によって初めて公式に明らかにされた。闘病の事実はごく一部の親しい関係者にのみ伝えられ、共演者には一切明かされていなかったという

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→ 同じく、裏の畑の隅っこの花壇に咲き誇る水仙たち。他の場所の水仙たちは、既に萎れかけているが、こちらはまだまだ元気だ。

 ところで、スーちゃんの訃報を報じるなかで、彼女が「1989年(平成元年)に公開された『黒い雨』で、主役・「高丸矢須子」役を演じ、日本アカデミー賞・ブルーリボン賞・キネマ旬報賞・毎日映画コンクール・報知映画賞などで主演女優賞を受賞」していたことを思い出させてくれた。

 このことは小生はすっかり忘れていた。
 というのも、肝心の映画を見ていない(はずだ)からである!

 映画『黒い雨』は、「1965年に出版された井伏鱒二の小説『黒い雨』の映画化」であり、「原子爆弾(原爆)の恐怖と悲劇を描いた日本映画」である。

 この映画については、以下の日記が非常に参考になる:
田中好子の乳房 榊邦彦's Official Blog-ウェブリブログ
『黒い雨』(今村昌平)の未公開部分  西岡昌紀

 福島原発で放射能汚染の恐怖、あるいは放射能汚染の脅威の終息に福島の被災地のみならず、日本中(世界中)が、固唾を呑み続けている最中、「原子爆弾(原爆)の恐怖と悲劇を描いた映画」である『黒い雨』で「被爆した女性をリアルに演じ」ていた田中(小達)好子さんが亡くなられたのは、何か象徴的なことに思えたりする、というのは、やや不謹慎な発想なのかもしれない。
 
 情けないことに映画は見ていないが、井伏鱒二の小説 『黒い雨』は、二度三度と読んだことがある。

被爆者・重松静馬の『重松日記』と被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』を基にした作品で」、直接は被曝していない、姪の矢須子が、「縁談が持ち上がるたびに「市内で勤労奉仕中、被爆した被爆者」とのデマが流れ、破談が繰り返されていた」。風評被害という奴である。
そんな折、矢須子にまたとない良い縁談が持ち上がる。この話をぜひともまとめたい重松は、彼女に厳重な健康診断を受けさせた上、昭和20年8月当時の自身の日記を取り出して清書しようとする。矢須子が原爆炸裂時、広島市内とは別の場所にいた=被爆者ではないことを証明するためだった」…のだが、というところで、話は佳境に入っていく。

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← 映画『黒い雨』(今村昌平監督 田中好子ら出演 原作:井伏鱒二 『黒い雨』 )

 小生は、原爆をイメージした虚構作品を幾つか書いたことがある。
 原民喜の『夏の花』に絡めての、「日蔭ノナクナツタ広島ノ上空ヲトビガ舞ツテヰル」(「路上に踏み潰された蛙を見よ」)が筆頭に上げられる。
 そのほか、まさに井伏鱒二の小説 『黒い雨』を強く意識しつつ書いた、「闇に降る雨」や「黒い雨の降る夜」がある。

 以下、それぞれの作品から一部、抜粋してみる:
 

 浮腫する肉体。血肉の蒸発する風船玉。まるで癇癪玉だ。ああ、涙が出るほど滑稽な光景だ。ゴロゴロ転がっている。
 衣服さえも天に召し上げられたのだ、髪など熱風と共に蒸発するのは当然じゃないか。髪は天へと揮発し、あるいは肉の底へと巻き込まれ縮こまっていった。天が地上世界をのし歩き睥睨して回る時、髪の毛など屁にもならぬ。
 私は哀願する若者を見た。懇願する娘を見た。平然と。お前達だって地を這いまわる蟻の命を思いやったことがあったか。さんざん、踏みつけにしておいて、今度、自分が踏みつけにされると怒る。我が儘な奴等だ。
 呪詛の声が響き渡る。呻く声が、髪の蒸散するように空しく白い闇に溶けていく。
            (「路上に踏み潰された蛙を見よ」より)

 
 シトシトと降る雨。闇の空に降る雨。虚の雨。心を濡らすことのない、地を潤すことなどありえない雨。情のない雨。沈黙の海に世界を変えることのない雨。沈黙を生きとし生けるもののざわめきに立ち返らすことのない雨。窓を伝うことのない雨。雨樋(あまとい)をリンパ節のように忌避する雨。
 あまりに遠くへ来てしまった。立ち竦み、一歩も動かなかったはずなのに、気が付けば、誰もいない闇の空を眺めるしかなくなっていた。
 空っぽの空。そう、空(そら)なんかじゃなく、ただの空虚なのだ。
 蒸発して消えた影。蒸発の腹いせなのか、それともこの世への未練なのか、煤け爛れたコンクリートの壁に影の輪郭だけを形見に遺して消えた奴。中には、決して忘れさせるものかと、誰もが忘れた頃に生まれてくる奴もいる。
                 (「闇に降る雨」より)
 
 
 長崎の原子野に降った黒い雨に俺は祟られている。あの、紫よりも周波数の高い、怒る光のシャワー。肉が蒸発し、血が噴き、肺腑が踊り、羊水が煮え滾った。胎児は生煮えとなり、妊婦は遮光土器の模様と化した。鉄骨が蕩け、瓦が泡立ち、石が煤となり、コンクリートが灰燼に帰した。
 そうだ、俺はあの原子野をやっとの思いで生き延びた女の忘れ形見なのだ。俺は俺のお袋の影に過ぎないのだ。俺は生まれながらに呪われている。お袋の怨念に呪縛されている。俺はお袋の復讐を果たさねばならない。でも、一体、復讐の相手は何処にいる?
                 (「黒い雨の降る夜」より)

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コメント

「黒い雨」は、同じように広島・長崎特集でこちらで観た黒沢の「八月のラプソディー」や遺作「夢」と同様にとても印象の残っておりVIDEOに録画してあります。

田中好子の本格的な演技ははじめてみましたが、入浴中に髪の毛が抜けてるシーンは圧巻でした。上の情報によると結婚前だったようですね。

小沢昭一や父親役の北村和夫の演技が光ってました。二次被爆やその被爆二世を何人も知っているので、その原作や映画の出来は良く分かりました。

そして福島で若しかするとホットポインツとなる都内で同じように彼女が演じたような情景が再現されるかと思うと居ても立ってもいられない心境です。

こうした作品があるにも拘らずそれと現実がそこに結びつかない日本にはやはり文化的な欠陥があるに違いがありません。きっと日本では文化は余芸でしかないのでしょう。

ハリウッドのマイケル・ダクラスでさえ自作の「ブラックレイン」として広島で被爆したやくざの親分を描いているのですが。

投稿: pfaelzerwein | 2011/04/25 01:17

pfaelzerwein さん

『ブラックレイン』!
松田優作はこの映画に出演した当時すでにガンに冒されていたとか。

さて、「題名の『ブラック・レイン(Black Rain)』とは、原爆投下や空襲によって起こる煤混じりの雨を指している(作中、菅井が大阪空襲後の黒い雨に纏わる因縁をニックに語る)。菅井はアメリカが戦後日本人にもたらした個人主義が、義理人情の価値観を喪失した佐藤のようなアウトローを産んだと暗にアメリカ人を批判し、「黒い雨」という言葉を象徴的に用いる」とか。

日本人さえ、忘れがちなことをアメリカの人が敢えて映画に取り込もうとする。

日本人のいいところは、忘れやすいところ、そして、時に致命的な欠点も、忘れやすいところ。
一部の人は別にして、辛いことは随時(都合のいい折に)思い出し、普段は忘れてしまう。
先の戦争のことも、広島・長崎の原爆のことも忘れ、<クリーンエネルギー>と強弁してまで原発政策を強行する。
原発の何処がクリーンなのか。厚顔無恥にもほどがある。
石原は原発が現実的と言って憚りません。
でも、今のエネルギー危機の状況だからこそ、原発に費やすカネを環境にやさしいエネルギー源へシフトすべきだと考えます。

投稿: やいっち | 2011/04/25 21:02

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