ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」(後編)
この『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』(酒井武志訳、早川書房刊)は、まさに難問に若き日より挑んだペトロス伯父の不遇の人生を描いたものである。
小説中には実名がドンドン出てくる。クルト・ゲーデルやラマヌジャンやらチューリング、ハーディ(歴史上の人物として言及されている人々=ユークリッド、フェルマー、ゴールドバッハ、オイラー、ガウスは除いての話だ)らだ。
← たぶん、近所の飼い猫だと思うが、近所一帯を縄張りにしているらしい。もう一匹、黒っぽい猫も一帯をうろついていて、縄張りが重なっているみたいだが、さて。
そうした傑物にペトロス伯父は、会ったり、関わったりしていることになっている。つまり、ペトロス伯父は虚構の人物なのである。
その伯父に、語り手であるペトロスから見れば甥に当たる私が狂言回しの役を演じている。
甥である私は、一家からも伯父からも禁じられている数学の道に飛び込んでしまう。一家の中で困り者とされている伯父が何故に、つまはじきされているのか、その秘密に深く関わっていくのだ。
小説の最後も、その甥の深入りが伯父の末期に影響を与えるのだが…。
→ おなかの辺りに注目。ややメタボっぽい?
ところで、ペトロス伯父が関わったりする人物群には、数学の好事家は皆、とっくに馴染みだろう。小生も、まさか難問には挑みはしなかったが、遠くはガロアの伝記に始まって、多くの数学家の伝記やエッセイを読んできた。
一昨年だったか、カルヴィン・C・クロースン著の『数学の不思議』(好田順治訳、青土社刊=高校程度の数学の力があれば十分、読めるし、楽しめる)を読んで、ゴールドバッハやらゲーデルやらラマルジャンやらの凄さのほんの一端を楽しむことが出来た。
この本は数秘術からゲーデルまでと銘打っているが、数の世界の不思議を音楽の世界同様に素人にも楽しませてくれるものだった。
そういえば、小生はガキの頃から数の神秘というのか、魔術に囚われつづけてきた。特に学生時代から、その癖は激しくなったものだ。
← 出窓から観察する小生の呟きが聞こえたのか、「何! 誰だ!」とばかりにこちらを窺う。
といっても、別に高等な数学的思索や瞑想に耽ったわけではない。ただ、様々な数の中に<秘められた>暗号に、勝手に意味深な意味を付与してきただけだ。
例えば車のナンバープレートを見ると、必ずその四桁の数字を分解したり、2や3などで割ったり、素数でないかを探ったり、何か自分に関わりのある数字に導けないかと、あれこれいじったりするのである。
そうそう、今、田近伸和氏著の『未来のアトム』(アスキー刊)を読んでいるのだが、たまたま、今日、読んでいるところにゲーデルが論述上、重要な人物として出てくる。この『ペトロス伯父...』でも、実はゲーデルは重要な役回りを演じている。何か奇妙な符号を感じたりして。
→ 丸山 健二・著『千日の瑠璃 上』(文春文庫) 丸山 健二・著著の『小説家の覚悟』(丸山健二エッセイ集成 第四巻)を営業所などでの待機の間に読了した。再読である。待機中は、凝った本は読めないので、エッセイ風な本を選ぶか、再読の本を選ぶ。本書は、東京でサラリーマンをしていた会社を首になる直前だったかに買って読んだ本。ストイックな姿勢にだけは感心した。彼は、アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)に影響されたか、共感しそうな作家。このエッセイ集を読んで彼に負けたと思ったのは、彼の文学への真摯な姿勢にもだが、彼が14歳で読んだメルヴィルの名作『白鯨』に心底感動したってこと。小生は学生時代、読んだが、ただの意地で読み通したという記憶しかない。その後、三十代の終わりになって再挑戦し、『白鯨』が絶後の小説だと実感した次第。小生は、感激の余り、『白鯨』を巡るエッセイを幾つも書いた。拙稿の末尾の記事リストを参照願いたい。
実は昨日、仕事が事情があって早引けとなり、それで開いた時間を利用して、何か本を読もうと物色した結果、選んだのが『ペトロス伯父...』なのである。ただの偶然とは思いたくない心理が、つい、働いてしまう。
数学は、科学ではないと素人ながらに思う。それは芸術、それも音楽くらいしか比肩できない究極の芸術なのだ。美そのものを追求する学問。否、学問でさえ、ないかもしれない。
その数学の世界では日本はトップクラスにある。例えば、フェルマーの最終定理の解決でも、解決したのはワイルズであることは間違いないが、その解決には、志村五郎、谷山豊、岩澤健吉、肥田晴三などが不可欠の存在として関わっている。
二十世紀の数学の世界で、ノーベル賞があったなら、恐らく十人は日本人の受賞者がいるだろう、とは、数学者の藤原正彦氏の弁である(彼の数々のエッセイは小生の大好物である)。
それには日本の和算以来の伝統と、きっと、日本人特有の美意識、美の感覚が大きく関わっているとも、藤原氏は述べていた。
← 丸山 健二・著『千日の瑠璃 下』(文春文庫) 「一ページごとに変わる千の視点によって描かれる「まほろ町」と少年・世一、そして一羽の鳥の千日の物語。いかなる微細なものも逃さぬ文体と重層的な描写は新しい小説の世界を開いた」といった本…らしいのだが、小生、上巻の冒頭の数頁で、文章に辟易して読むのを投げた。一旦、読み始めたら、意地でも読み通す小生に、そんな拒絶反応を起こさせるってのは、考え方によれば凄い作家だってこと?
たかが数、されど数なのである。
今、きな臭い時勢ではあるが、敢えて、俗塵を離れた世界を覗いてみた次第である。
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コメント
エッセイ教室の先生の次男は、幼いころから数字に興味を持っていたそうです。
ナンバープレートの数字を教えてほしいとせがんだり、電話番号やらカレンダーなどを好んだと聞きました。
高校生のとき、彼はアテネで開かれた数学オリンピックに出場するという快挙を成し遂げました。
すごいですね。
片や、私は数学が苦手でずいぶん苦労したものです。
今にして思えば、反復学習が不足していました。
できないから嫌いになり、嫌いだから勉強しないんですよ。
克服する気持ちで取り組んでいれば、数学の魅力を理解できたかも。
あ、お金を数えることだけは好きです(笑)
投稿: 砂希 | 2011/04/16 19:47
砂希さん
「エッセイ教室の先生の次男は、幼いころから数字に興味を持っていたそうで」、「高校生のとき、彼はアテネで開かれた数学オリンピックに出場するという快挙を成し遂げました」とのこと。
ちょっと比較にならないすごい人ですね。
多くの方が数学で苦労されてますね。
まあ、できは違いますが、数学、特に幾何学が好きでした。
幾何の問題(補助線を引く)を契機に数学が好きになったようなもの。
小生が数字に変質的になったのは学生になってから。
高校時代の失恋などが引き金になっているようです。
それと政治的なこと(友人の問題)とか。
数学への片思いは今も続いています。
理解もできないのに、数学関係の本を読むのが何よりも楽しみ。
投稿: やいっち | 2011/04/16 22:03