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2011/04/17

日の下の花の時(後編)

 さて、緑の葉っぱは、まさに陽光を浴びるべく進化を遂げた。紫外線に耐性を持ち、あるいは万が一、紫外線により遺伝子が損傷を受けても、修復する遺伝子も備わっていたりもするという。

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← せっかくなので、ナナカマドに咲き始めた小花を接写してみた。やはり、アセビっぽい小花だ。今朝の雨に濡れて、愛おしさの念が高まってしまう。

 それは、葉っぱだけではなく、花びらだって、そうした耐性などのメカニズムを備えているのだろうという。
 そうでなかったら、そもそも咲きはしないのだろうし。

 しかし、実際の花々を見てみると、花の命は短い。文字通り、儚い命を宿命付けられている。ということは、仮に(そして恐らくは)紫外線への耐性があったとしても、そのメカニズムは、葉っぱなどに備わる持続的な耐性(特に常緑樹)とは、自ずから違う脆弱なものである可能性も高いように思われる。

 そう、蕾が開花し、満開になり、受粉、受精の時を迎え、蜜や香りなど(人間の目には美しく見える花の様子もなのだろうか)、さまざまな老獪なるテクニックを駆使して昆虫や鳥などに受粉の手伝いをさせる。その間は、植物にとっての生殖器を日のもとに晒す。生物にとってそこが損傷を受けると致命的でもあるはずの性器、生殖器を紫外線その他の危険にまともに晒してまでも、受粉受精の時を持つしかない。

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→ 今朝、庭掃除をしていて、山茶花の周辺に至って、この光景に出会った。山茶花の季節が終わりに近づき、花(びら)が落ちて無残な惨状を晒している。近所の白木蓮も花がほぼ落ち尽くした。桜も金曜日の夜がピークだったようだ。小生は、仕事中だったが、車中から何度も桜…や人見物。


 蠱惑(こわく)の時、勝負の時、運命の時。束の間の装いの時。

 身を誘惑と危険との極に置いてでも、次世代のために敢えて花を咲かせる。
 が、役目を終えたなら、花の多くは(それとも花は全て?)呆気ないほどに散ってしまう。紫外線などによる損傷など初めから承知なのだろう。

 受粉が叶わなくても、多くの花は落ち、花びらは、焼け焦げ、あるいは萎れ、凋み、地の糧、地の塵となっていく。そうすることで、次世代の安泰が確保され、本体である幹や茎や枝や根っ子や葉っぱたちが生き延びられるのだ。

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← 竜の髭の群に落ちた山茶花の花。竜の髭の花のようでもあり、草むらに落ちた首のようでもある。雨の中だったからだろうか、一層、哀れに感じられてしまった。この光景を見て、旧稿を本ブログに載せようと思ったのである。

 花、それとも植物の奥の深さは、計り知れない。白熱する陽光の下の生きもの達のドラマは、それだけに床しい。路上で焼かれる花々を見て感動したのは、だからこそなのだと思ったのである。

                       (「日の下の花の時」(04/05/16) より

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コメント

国見さんの前編を読ませてもらって、
僕もブログを更新しました。
僕のオチは同語反復。

  美しくない花を、
  僕は花と呼ばないのなら、
  たとえ花であってもそれと気づかないのなら、
  美しい花を花と呼ぶことは、同語反復にすぎない。

  僕にとって花は、
  最初から美しいという価値評価を含んでいる。

途中、小林秀雄で遊びながら一気に書きました。
ありきたりですが、
楽しいですよね、こんな考えごと。


猿人は花を食べていたらしく、
花はさほどおいしくなかったにしても、
花は同じ場所に実をつけます。
花を探す、見つける、果実を待つ、
花は、うれしくて、腹いっぱいで、
花を見つけると驚きがあり、花を見ていると期待がふくらみます。
う~、とうなったか、あ~、と嘆息したか、
それは美しいのだと思います。

種子植物は、種になって、また同じ場所に咲きます。
死滅したように見えて、消えてしまったようでいて、
でも何事もなかったかのように花が咲いている。
その驚きと、感動は、美しいのだと思います。

季節があるところなら、
例えば、春、
プリミティブな感動が僕にも少しくらいは残ってます。
夏に向かうと空き地の雑草は見事な調和を見せます。
って、草むしりの国見さんにはうんざりでしょうが。


とてもきれいな食虫植物があったらおもしろいですね。
もちろん人にとってきれいな。
美しさで昆虫を誘う食虫植物がないのは、
昆虫にとって美しさはさほど重要ではないように思えます。
少なくとも夜の間は。


> この光景を見て、旧稿を本ブログに載せようと思ったのである。
実存っぽいな、と思いました。

花はなぜ咲くの?
と訊くことは、
人はなぜ生きるの?
と訊くのと同じですよね。
少なくとも、人にとっては。
花は問わないし、答えも求めません。

対人間として植物が戦略を講じるとしたら、
美しく咲くこと、それももちろん重要ですが、
直後に哀れに朽ちること、これは見事な戦略です。
昨日まで咲いていた花が落ちている。
それに対しては、僕だって、
う~、とか、あ~、とか、それ以上の言葉を持っていません。


話がちょっと逸れますが、
ブラジルでね、
光るアリ塚がありまして、
幻想的でとてもきれいな景色なのです。
人にしてみれば。

で、光っているのはなにかというと、
シロアリを餌とするヒカリコメツキムシの幼虫でして。
シロアリが作ったアリ塚に棲んで、
光でアリを集めて、ばくばく捕食しているわけで。

人が見て、きれいだな、と思った時点で、
人もヒカリコメツキムシにまんまと誘われてしまっています。

昆虫も花を美しいと思ってるのかも知れませんね。
偶然にしても、人と興味が重なる部分が多いのなら。


さて、仕事してきますね。

投稿: 青梗菜 | 2011/04/19 10:44

青梗菜さん

青梗菜さんならではの展開。
ブログのほうも読ませてもらいました。

拙稿は、というか、小生は、花の美しさ、美しい花という存在の驚異に、ただ感嘆するだけ。

拙稿において、まともな落としどころなど期待すべくもありません。

小林秀雄の言う「美しい花がある、花の美しさというものはない」という表現など、今更、持ち出したくないし。

とにかく、花というのは、端的に言って性器なのであり生殖器なのだということ、なのに、あるいはだからこそ、美しいってことに、驚いているだけです。

花は、昆虫などの動物や人間をも魅する。
だとして、そもそも一番、魅せたい相手は誰なのでしょう。
お日様? 宇宙そのものへの誇示?
お花って、究極の(局部)ヌーディストなのかもしれない。

投稿: やいっち | 2011/04/21 17:51

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