「無限」に魅入られた天才数学者たち(前編)
しかし、本書の主役であるゲオルク・カントールは、無限の探求に身を捧げた挙げ句、当代の大物数学者に徹底的に虐げられたこともあり、狂気の淵に沈んでいく。やがてカントールの仕事を引き継いで、「数学内部に証明不可能な命題が存在することを示」すという、重大な数学的哲学的貢献を為したクルト・ゲーデルもまた、激しい被害妄想に苦しむようになる。
ゲーデルは、カントールの後を受け継いで、「証明とは何か? 証明と真実とは同じことなのか? 真である事柄は、常に証明可能なのか? 有限な系は、その系を超えたものに対しても証明を与えうるのか?」という哲学的な問い掛けをしたのだ。
→ 移植した梅の木も、その花々をいっそう勢いよく咲かせてくれている。水遣りは毎日。数日に一回は、米の研ぎ汁を撒いている。いいのか?
その狂気の淵から少しでも<現実>に戻ろうと、カントールはシェイクスピア劇は、実は、シェイクスピアが書いたのではなく、フランシス・ベーコンであることを証明しようと躍起になる。
一方、ゲーデルは、ライプニッツについて、奇妙な説を打ち立てようと不毛な努力を傾ける。その間だけ、精神に平安が訪れるかのようだった。けれど、ゲーデルは食べ物に毒を盛られているのではないかという妄想に取り憑かれ、餓死して果てたのである。
数学の世界で無限をめぐる探求をした者で、少なからずの者が狂気の淵に沈んでいった。まるで、神は「無限」を弄ぶ人間を罰するかのようである。
しかし、少なくとも西欧においては、遠い昔から無限をめぐる考察が繰り広げられてきたのだ。有名なカメに追いつけないウサギというゼノンのパラドックスを初め、アルキメデスもユウドクソスも無限について研究をした。
かの数学者、物理学者、天文学者にして人文科学者であるガリレオも、その一人だった。ニュートンもライプニッツも、ガウスも、オイラーも手を出さなかった実無限という「秘密の園」に手を出したのである。
← アミール・D.アクゼル著『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(青木 薫【訳】 早川書房) 「数学は無限をどういかに手なずけたか」という副題。 小生は、過日、アミール・D.アクゼル著の『神父と頭蓋骨―北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展』(林 大【訳】 早川書房)を読んだばかり。やはり、科学のアマチュアを手なずける手際はさすが、と感じさせる。多少なりとも専門的素養があると、物足りないだろうが。「無限」を巡っては、一般書向けの本としては、ジョン・D.バロー著の『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)が秀逸である。
彼が示したのは、「1、2、3、4、…」という整数の全体の数と、それぞれの整数を二乗した数、つまり「1、4、9、16、…」の全体の数とは、同じだけあると結論したのである。素人目にはパラドックスにしか思えないこの結論も、数学的には文句のつけようがないのである。
ここにある問題の恐ろしさは、まさに無限を巡る恐ろしさのほんの一端を示す。「無限集合はそれ自身よりも小さい部分集合(真部分集合)と、要素数において等しくなりうるという性質」をガリレオが発見したのだ。
それをさらにボルツァーノが発展させた。敢えて説明は控えるが、彼は0と1のあいだにあるすべての数と0と2の間にあるすべての数とが一対一対応することを示したのである。
カントールは、この無限の一見するとパラドックスに更に奇妙なパラドックスを付け加えた。彼は一次元の線と二次元の面とを一対一対応させることに成功したのだ。
そして、「n次元空間には、一次元の直線と同じだけの点が含まれることを示したのである」。
→ 黄色の(ラッパ)水仙も、このところの陽気に、満開である。裏の畑の水仙も群れを成して育ってきた。
このときカントールが書いた「我見るも、我信ぜず」という言葉は有名である。
さて、素人の小生が数学について云々するのはこれでやめておく。
ただ、彼ら数学者の無限を巡る探求を背後で支え、また彼らを駆り立てた情熱は、何処かで神への対話、神への問い掛けの念があったことだけは述べておきたい。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- カーポートに車とバイクを併置(2021.01.18)
- スタインベック『チャーリーとの旅』にアメリカの病根を知る(2021.01.16)
- 右腕が上がらない(2021.01.14)
- 圧雪に潰れた車庫から車 本日脱出(2021.01.13)
- カップ麺の食事が4回続く(2021.01.12)
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- カーポートに車とバイクを併置(2021.01.18)
- スタインベック『チャーリーとの旅』にアメリカの病根を知る(2021.01.16)
- 右腕が上がらない(2021.01.14)
- 圧雪に潰れた車庫から車 本日脱出(2021.01.13)
- カップ麺の食事が4回続く(2021.01.12)
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- スタインベック『チャーリーとの旅』にアメリカの病根を知る(2021.01.16)
- 圧雪に潰れた車庫から車 本日脱出(2021.01.13)
- 雪との格闘 歩数計は1万超え(2021.01.10)
- 消費税を福祉目的税に(2021.01.05)
- 除雪は経費不要のダイエット(2021.01.03)
「旧稿を温めます」カテゴリの記事
- 無生物か非生物か(2020.05.20)
- 吉川訳「失われた時を求めて」読了(2019.12.14)
- フォートリエとヴォルスに魅入られて(2018.08.21)
- 不毛なる吐露(2018.06.27)
- タイルの目地には泡スプレーがいい(2018.06.14)
「写真日記」カテゴリの記事
- カーポートに車とバイクを併置(2021.01.18)
- スタインベック『チャーリーとの旅』にアメリカの病根を知る(2021.01.16)
- 右腕が上がらない(2021.01.14)
- 圧雪に潰れた車庫から車 本日脱出(2021.01.13)
- カップ麺の食事が4回続く(2021.01.12)
コメント
僕など、なにかとすぐに限界が待ち受けているので、すぐに無限が来てしまいますが。つまり、謂いは、不可能と同義。もう無理だからいいですよ、と受け取ります。
無限大は、まだぼんやりと溶け出していくような、
あとは無限大ですね、って気分よく拡散して終わりにできそうですが、極小の極小の、無限小が怖いです。
出口を封じられているからどこまでも終わりがなくてつらいです。
こんなのは哲学ではなくて、気分ですけど、哲学よりも気分がよほど重要です、気が狂わないためには。
投稿: 青梗菜 | 2011/04/03 21:42
青梗菜さん
無限というと、小生などは、すぐゼノンのパラドックス (アキレスと亀)の話を思い浮かべてしまいます。
アキレスと亀が駆けっこする。アキレスの方が足が速いのは明らかなのに、アキレスが亀に追いつけないって、あれです。
少し違う観点から言うと、たとえば、地上にいる人が山を見、さて、山の頂上を目指してのぼる。
でも、登っても登っても、頂上へはたどり着けない。
息を切らして頂上らしい場所へ登ってみたら、そのエリアでなければ見えない山の頂(崖の天辺)が見える。
再度、頂上を目指して登るんだけど、やっと崖を登ってみたら、やっぱり、そこから更なる頂上が見える。
これは、人生そのものみたい。
ゴールだと思ったところにたどり着いたら(他の人にはゴールにたどり着いたと見えているのに)、たどり着いたはずの人にだけしか見えない、更なるゴールが遥か先に見える。
あるいは、目の前のあるものを掴もうとする。
グッと手を伸ばして、やっと届きそうに成ると、そのものは遠ざかってしまっていることに気づく。
傍の人には、どう見たって届いているはずなのに、目の前のものを今にも掴みそうになっている人には(その人だけには)肝心のものが、またもや手の指を擦り抜けて、憎いほど近いけど、でも、指ではわずかに届かない先に遠ざかってこちらを高みの見物している。
無限って、真空は存在しないと喝破した哲人の発想とも遠からぬものを感じる。
限りなく真空っぽくは、場合によっては可能なようだけど、実は、その真空は偽の真空であって、従前の真空よりは限りなく真空に近いけれど、しかし、真の真空ではない。
真空に迫れば迫るほど、その真空の実態が得体の知れない謎のXになっていく。
真空の揺らぎ。
死を間近にした人にとって、時間が無限…ではないとしても、際限のないものに映ってしまう。
ビルの屋上から飛び降りた人には、地上に落下して肉体がグジャグジャになるまでの時間は、何処までも引き延ばされて、無辺大に引き伸ばされた、終わりなき苦しみと恐怖の綯い交ぜになった、時熟した永劫の刹那を行き続ける。
死を前にした、最後のギリギリの意識は、ブラックホールの界面の前後に引き裂かれて、引き千切られて苛まれる心身を生きることになる。
なので、死は少なくとも当人には永遠に訪れない。
投稿: やいっち | 2011/04/05 02:05