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2011/03/29

子供と魔法の世界(後編)

 親(大人)の言葉や仕草も、家の柱も天井も壁も、立ち木も、木々の葉っぱも、あるいは天の青い空も白い雲も、すべて、鮮やか過ぎる、新奇なる感動の種なのである。
 そう、驚きの連続なのだ。

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← プランターの花の寄せ植えをそっくり植えた花たちは、今日も元気。ちょっと殺風景な筋状の花壇を紅一点のようににぎわせてくれている。

 車という物体がある。なんだか知らないが、それに乗せられると、居ながらにして、当人は座っていながらにして、親に肩を抱かれているだけで、世界をすっ飛んでいく。
 窓の外の風景が流れていく。道端の、普段は自分を追い越すか、自分を見下ろし睥睨していたはずの無数の人々を、あっという間に追いつき追い越し、後に置き去りにしていく。

 電子レンジに入れて摘みを適当に回しておけば、温かな食べものがチンと言って出現する。
 壁高くに吊られたエアコンに向けて、小さな箱(リモコン)のボタンを押せば、部屋の中が暖かくなったり冷たくなったりする。
 あるいはテレビに向ければ、勝手に画像が流れ出し、画像は、自分が見下ろす中で、あっちへ動き、こっちへ動く。気に食わなければ、ボタンをピッピッと切り替えれば宜しい。それだけで、画像の顔ぶれや風景が一気に変わる。

 世界は小さな王様である彼の手中にあるのだ。一切は、彼の足下にあるのだ。

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→ 南に面する道路沿いの筋状の花壇にムスカリが芽吹き始め、花も咲いていた。植えたり種を蒔いたりしていない。たぶん、一昨年、畑に種を蒔いて育っていた、その土を花壇に幾らか継ぎ足したから、その際、種も一緒に移動したのだろう。思いがけないプレゼントのような開花だ。

 しかも、彼ら子供たちにとって、飛行機に乗って世界を飛ぶことも日常茶飯事になっている。昔の子供以上に昔の王様以上に、王様であり神様であり全てである。 なんといっても食べるための苦労がないのだ。食べものというのは、何か訳の分からない紙切れかカードと交換される記号なのだ。

 人間の汗や労苦などとは一切、無縁の、ブラックボックスから出てくるメニュー、その気になれば、ちょっと喚けば、否、何も言わなくても黙って待っていれば現れてくる日々の当為なのである。そこにある、あって当たり前の、自分が我が侭放題に選択できる、ただの餌なのである。

 世界は彼の(彼女の)思いの下にある。世界は彼(彼女)の魔法の世界の中にある。
 まさに前段で引用したように、魔術とは「超自然的手段を用いて、善悪いずれであれ自分が望むようにこの世の現象を操作し変えようとするもの」だとしたら、現代という飽食の時代にある子供たちにとって、魔法は仕えて当たり前の世界になっているのだ。

 しかも、幾つになっても魔法は解けない。食べ物を得るために汗水を流す必要があるという現実から遠ざけられいる以上は、魔法が解けるはずもないのだ。子供の無邪気な、そして残酷な心をずっと抱きつづけることができる、それが現代なのである。
 つまりは、思春期になっても夢から覚めることがないのだ。

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← 昨秋、雪の季節の到来の前に、チューリップの球根を、畑一列に埋めておいた。それが芽吹きだし、チューリップらしい葉を土から覗かせている。来月の半ば頃には咲いてくれるだろう。

 が、人間(自分)にとって一番、身近である現実、つまり自分の体は、現実に目覚めよと命じてくる。その前に、ほんの少しでも肉体の枷を実感できていればいいのに、様々な家事や労働などで肉体を通しての現実との接触が、つまりは準備運動ができていればいいのに、それが先延ばしにされたままに、ある日突然、思春期を迎え、現実と格闘することになるのだ。

 どうやら、また先走りし過ぎてしまった。
 もう少し、魔法の世界を観察しておこう。

                                (02/03/13 原作(抜粋))

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