心を自傷する肉体(前編)
ガキの頃、あるいは物心付いたかどうかの頃、地獄絵図の夢をよく見たものだった。立山曼荼羅に描かれる世界が、小生の夢の中では現実だった:
「宝泉寺蔵地獄極楽図から我が地獄の夢へ」
「三途の川と賽の河原と」
「富山……佐伯有頼そして立山」
「地獄絵をよむ…美と苦と快と」
幾度となく炎熱地獄、無間地獄の世界を逃げ惑った。目が醒めて、ああ、夢だったのかと安堵の胸を撫で下ろすのだったけど、目覚めというのは、眠りの間の束の間の猶予に過ぎず、夜ともなると、また、元の木阿弥へと突き落とされていく。
その地獄では、同じ場面が繰り返された。ある男(自分?)の脛(すね)の肉が殺ぎ落とされる。
血が噴出す。肉片が何処かへ行ってしまう。男は、取り戻そうと駆け出すのだが、炎熱に阻まれて追うことは侭ならない。
が、気が付くと、男の眼前に肉片が転がっているので、男は慌てて肉片を拾い、脛にあてがって元の状態に戻す…のだが、またまた誰かの手により(それとも鋭い刃によって)殺がれてしまい、血が噴出し、男は肉片を追おうとする…。そんな繰り返しだった。
そんな夢に毎晩のように魘されて、小学校に上がる頃には精神的にヘトヘトになっていた。精も根も尽き果てていた。目が醒めている日常の世界では、無気力しか残っていなかった。何もやる気のないガキに成り果てていた。
それでも、それなりの経緯があって、哲学などを志すようになったのだが、肉体へのこだわりは強いものがあったわけである。人前では、そんな偏ったこだわりを語る気にはなれなかったが、読書ということなら、世間体としては、穏便に済まされる。
医学というより肉体に関わる本を読むことで、何かを癒そうとしたのか、それとも、ただただ好奇心を満たしたかっただけなのか。
そうした関心も前述したように80年前後には弱まる。
大学を出てもフリーター的生活をしていたのが、曲がりなりにもサラリーマン生活を送ろうと決めたのだ。人間的に成長した? というより、哲学する厳しさに耐えられなくなった、孤独に恐怖した、狂気に陥りそうで、精神的戦場から逃亡したのだ。
日々、朝、出勤し、忙しく働き、日曜も出勤し、夜は飲み会、サラリーマンの定番でゴルフを覚え、たまにある休みにはオートバイでツーリングに出かけ、誘われるがままにテニスをしたりスキーしに行ったり。極めて平穏無事な、その意味で人間的な生活を十年近く送ったのである。そうした生活で問題が解消されると思ったのかどうか。
それが、あれこれあって再び、以前より厳しい探求の日々に戻るとは、因果なものだ。
学生時代の肉体へのこだわりを今になって振り返ると、それはある意味、自分の孤独を癒すというより、糊塗するための方便でもあったように感じる。少なくともそんな一面がなかったとは思えない。
人並みに友人関係や恋人との付き合いで寂しさを紛らす能もなく、どうしようもない孤独感を覚える時、酒に溺れたり、薬に頼ったり、暴力などの手段に訴えたり、とにもかくにも今、当人を襲っている凄まじい嵐に耐えるため、あるいは目を逸らすため、あらゆる手を使う。手段など選ばない。
しかし、誰でもがそういう方向に走るわけではない。
時に内向きな性向を持つものは、自傷行為に走ったりもする。リストカットとか極端な場合は自殺とかに突っ走る。
小生の肉体へのこだわりも、最後の最後の確実なものは、人でもなく心でもなく肌であり肉体であったに過ぎなかったのだろう。
少しでも自分の気持ちを開く術を持っていたら、恋人とかと寂しさを分かち持つ時を持てたのかもしれないが、そんな夢のような世界など無縁だった。指を銜えて眺めるだけのはるかに遠い世界だった。心を開いての語らいなど、ありえない話だった。
では、心より自分の肉体が確かだと思っていたのか。
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