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2011/03/04

サナトリウムとライと(後編)

 結核は忌まわしい病ではあったが、同時に多くの文学・芸術作品を残した。
 その一方、癌も業病なのに結核ほどには豊穣な文学世界を恵んではくれなかった(小生の印象に過ぎないのだろうか?)。

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→ 「ガルダ湖 (Lago di Garda) 」 「イタリアで最も面積の広い湖」。ジョイスや「ダンテ、ペトラルカやマキアヴェッリ、アリオスト、タッソーなど、この湖はイタリアの詩人や文人達にとってインスピレーションの源でもあった」。ゲーテもこの湖に魅せられている。「リルケ、トーマス・マン、ノーベル文学賞作家ハイゼ、ジイド、カフカ」もこの湖を愛した。「結核療養のためガルダ湖に滞在したヤコブセンやD.H.ローレンス、カルドゥッチ、など、この湖を愛した文人達は数え切れ」ないという。(画像は、「ガルダ湖 - Wikipedia」より)

 それは癌は一般的に、一旦、発病すると死の訪れが早く、ペンを執る遑も与えてはくれない場合が多いからだろう。つまり、癌は作家らが描いてさえも、ドキュメント的な作品になりがちなのである(ドキュメントも文学だというなら、癌は癌で芸術の母体にもなったと言うべきなのかも知れないが)。

 が、結核は真綿で首を締めるようである。じわじわと責め立てる。明日があるようなないような。息が出来るような出来ないような。愛に生きられるような叶わないような。絶えざる微熱に頬が火照り、心が火照り、咽が渇いていく。結核に倒れて辛抱と養生を強いられ、長く横たわってからだの形が煎餅布団に残るように、きっと結核の微熱が人生への渇望をも駆り立ててやまないのだろう。

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← フランツ・カフカ著『城―カフカ・コレクション』(池内 紀【訳】 白水社) 『城』は、「カフカが結核のため療養していた時期に執筆されている」。 「新しいカフカ 曲線が直線を追いぬき滑稽さが産業を超えてしまうこと -- 池内 紀 -- 季刊 環境情報誌 ネイチャーインタフェイス」参照。

 ある意味で昔は、結核は人生そのものだったのだろう。あるいは病は人生であり宿命であり、命と不可分の、死ぬまで降ろすことの出来ない荷物だったのだ。人に、家に、木立に、森羅万象に影の伴うように、人は病と一生を添い遂げるものだったのだ。
 現代において病気とは治療の対象であり、本来、全快可能な偶発的なものであり、なければなしで済むエピソードに過ぎないのとは大違いなのである。
 だからこそ、『魔の山』が生まれる由縁、というわけだ。

 結核が文学や芸術において生みの母でありえてきたのは、往々にして結核は若くして罹る病だという点も大きいのだろう。若く多感で、愛や恋や人生に悩む時期に結核に罹患して、誰よりも人生を深く生きることを強いられるのだ。周りの同年配の連中が活発に愛に生き、社会に参加して生きているのを尻目に、薄暗い奥の離れで人との(異性との)深い熱い交流も侭ならない生を(性を)強いられる。若い人間にとって、こんな現実はあまりに辛い。

 癌が、多くは晩年に罹る病であり、既に人生の終焉を覚悟したり、老衰その他の形で身近な人の死を多く見守ってきた人間が発症する病であることが、従来は癌が文学の形に結晶し辛かった理由なのだろう。
 …これから、もっと生まれてくるのだろうし、小生が知らないだけで、すでに生まれてもいるのだろう。

 一方、では、癩は如何。
 実は、ここに文学の世界でさえマイナーとならざるを得なかった問題がある。癩は文学の世界にあっても異端であり、日陰の存在なのである。そこに重苦しい問題があることは誰しも予感するが、関係者以外は目を背けて通り過ぎる世界なのである。容貌、外貌が崩れることへの嫌悪と恐怖は文学者(あるいは文学愛好者)にとってさえ、鬼門なのである。

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← 徳永進著『隔離』(岩波現代文庫) 副題は「故郷を追われたハンセン病者たち」。この(副)題名だけでも、悲痛な現実が偲ばれる。1980年代に至るも、依然として続いていたのだった。拙稿:「徳永進著『隔離』」参照。

 ところで、近年、結核が流行の兆しを見せていることは周知のことだろう。今、何故、征服されたはずの結核が?! その経緯は別の機会に譲るとして、さて、現代における結核は文学に、あるいは我々に新たな豊穣なる世界を恵んでくれるのだろうか?
 エイズが、不十分ながら恵んでくれたように…。

 それとも、病は徹底して偶発的なもの、人間にとっての他者、単なる異物であり、肉体的条件に左右されない、何か抽象的な文学世界が現出してくるのだろうか。
 だとしたら、それは肉体の条件に縛られる我々には想像も及ばない世界であるのだろう。その抽象の高みに耐えられないからこそ、薬物やゲームやスポットライトに依存し、殊更に物質的事象の次元に自らを引き落とそうとするのだろうか。
 いずれにしても、肉体がデジタル情報の加工物に過ぎないという現実に慣れるには、まだまだ相当の時間を要しそうである。 
 ま、気長にやっていくしかないようだ。それだったら、ひとっ風呂浴びて考えることにしようかね。


                                    (02/11/28原作

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コメント

皓星社から「ハンセン病文学全集」が出ています。
残念ながら富山市立は蔵書していませんが、県立、高岡市立の図書館にあります。少しずつ読もうと思っています。

投稿: かぐら川 | 2011/03/04 22:42

かぐら川さん

「ハンセン病文学全集」(皓星社)

これに関連して、以下のような講演が見つかりました:
「ハンセン病文学全集編集室 日本文学への贈り物 加賀乙彦氏講演」
http://www.libro-koseisha.co.jp/top17/main17.html

ハンセン病文学というと、北条民雄作品を読んだことがあるだけです。
北条民雄著『いのちの初夜』(角川文庫)です。
「北条民雄はハンセン病患者で、昭和12年に23歳の若さで逝った小説家」。
上掲書は、「北条が同病の療養所(隔離施設)での経験を元にして書いた短編集」なのだということは、釈迦に説法でしょうが。

今の時代にあって、こうした世界に向き合うのは、しんどいことでしょうね。

投稿: やいっち | 2011/03/06 18:16

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