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2011/02/14

富山の「奥田神社」(後編)

[本稿は、「富山の「奥田神社」(前編)」の後編です。]

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→ 一昨日までに、日向の雪は大半が融けてくれた。庭の草木も、ホッと一息。水溝に泥が溜まり、雪融け水の流れが妨げられていたので、溝(どぶ)浚いをやった。かなりな泥濘が取れた。一昨日の夜半からまた雪。元の木阿弥に。今夕からもまた雪が降り出している。今日のバレンタインデーには、こんな記事をアップした

 奥田神社は、熊野(神)社の系統の神社である。
(熊野那智大社の末社の一つと聞いたことがあるが、未確認な面もあり、ここでは深入りを避けておく。富山には、その名も熊野神社があるが、ここでは触れない。)

 以下、「奥田神社由緒並古事」より、「奥田神社の祭神由緒沿革」を転記する:

一、境 内 地 二三五坪七五
一、祭 神    伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大御神、琴比羅大神
          菅 公
伊弉諾尊、伊弉冊尊、二神共に力を戮せて此の国土を修理固成し給いし国家肇造の元首帝室皇統の大本としてまつる大神であります天照大神は日の神と申すは、日本書記に明かであります。大神の広大なる御威徳を日神と称へ、其の御威霊を天に輝く太陽の何物にも比ひなき威霊に事寄せて仰ぎ偲び奉る我等国民の真情であつて、実際は言うも畏き我が皇室の御先祖、我等国民の根本に坐しますのである。されば神風静けき伊勢国に鎮り坐す伊勢の皇大神宮は航海守護の神として舟人水夫の尊信頗る篤い。菅公は菅原大神(菅原道真、天満天神)即ち文学の神であります。
一、由 緒 遠き由緒は不詳なるも寛保元年三月奥田郷なりし「奥田、下奥井、下新、鶴田、下赤江、桑原、中島、上赤江、上奥井、西田、窪、狭間、粟田、粟島、下富居、上富居、宗左ヱ門、弥右ヱ門」以上十八ヶ部落を総轄守護神とし其の後、赤祖父伝兵衛来りて永住の地となし社殿の改築に努力、境内地千二百坪餘りの広闊の敷地を有し、樹木、鬱蓊昼尚暗く老木三抱餘りのもの無数にあり、漁師は常に出漁の際或は東岩瀬港に出入りする航海に唯一の目標林とせられたる盛時の時代もありたり。然るに合寺期と戦火とに依りて境内敷地並に古稀の老木は悉く現在の状態に圧縮され昭和九年十一月二十七日附近琴平神社合祀と同時に村社に昇格せらる奥田部内に於ける指定神社は実に奥田神社一社あるのみであります。
一、古 事 「サラ宮」と称し老樹の下よりは常に清水滾滾と湧出し安政四年大鳶崩潰に際し湧出地は潰滅したるも其の地帯の清水は現在の手洗水に起因す。往事祭事として境内に風呂桶数個設置し遠近より集せる信仰者は競うて斎戒沐浴し以つて御神徳にあやかり一面敬神崇祖の至誠を捧ぐる事の誇とせる盛儀を極めたる行事でありき。
清水は古来皮膚病特に「ヘルカメ」「オガメ」全治に霊験顕著なりとし今尚遠近を問わず、小甕を奉納参詣するもの絶えざる現象が近年まで続いて居りましたが昭和四十五年になりまして現在の手水舎に隣接致しサラ宮をお安置申し上げて居ります。

(「ヘルカメ」「オガメ」なる皮膚病は不詳。「オガメ」は、カマキリの方言だったりするが、虫刺されの一種か? 「赤祖父」については、この記事のコメント欄を参照のこと。)

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← 「熊野那智大社」 (画像は、「熊野那智大社 - Wikipedia」より)

関連拙稿:
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「天神様信仰と梅の花」再掲
金達寿著『古代朝鮮と日本文化』
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「熊野」を「ゆや」と読むとは知らなんだ
高橋哲哉著『靖国問題』
ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話

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コメント

戮せる(せる)は、初めて読みました。
この、合わせる(あ)は読めます。

投稿: デリバード | 2011/05/10 01:21

デリバードさん

何か誤字・脱字とか、ありましたでしょうか。

投稿: やいっち | 2011/05/10 21:51

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