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2011/01/12

スタイナー それとも死に至る病としての言語(前編)

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← ジョージ・スタイナー/著『バベルの後に 言葉と翻訳の諸相 下』(亀山健吉/訳 叢書・ウニベルシタス 400 法政大学出版局 )

 ジョージ・スタイナー著の『バベルの後に〈上〉言葉と翻訳の諸相』 (亀山健吉 訳 法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス)に続き、『バベルの後に 下』を読んだ。
 ちょっと難解だし、上下巻合わせて900頁以上の大部の本なので、幾分のためらいもあったが、年末の雪篭りの時間を費やしてしまおうと、図書館が休館に入る前に借り出し、一気に読了した。

古今の芸術思想、言語・文学理論、英仏独語の表現に通暁した現代随一の批評家が、文化史、哲学史の沃野を渉猟しつつ、言語の複数性という巨大な謎に真っ向から取り組んだ、翻訳研究の古典」というもので、小生には手強すぎる著作だが、上巻を読み終えて、さて、どうするかと、寝床でつらつら考えたとき、分からなくて結構、最後まで読んじゃう、と妙な意地を張ってしまったような。

 なんだか学生時代の力づくの読書を思い出してしまう。

 読書とは他人の頭脳(本)を借りて思考することだ、なんていう文句を、高校時代、ショーペンハウエルの随筆(文庫本)に見出して、そうだよなー、でも、それでもいいや、何でも面白そうなものは、読んじゃえ、取り掛かった本は力づくでも最後まで読んじゃえと、時にやや不毛な読書生活を送ったような気味もないではない。
 でも、読書における疾風怒濤の時代が終わって、少し、落ち着いてきて、自分の能も思い知らされてくると、読書という形であっても、他人の頭脳(本)を借りて思考することさえ、とてつもなく難しいこと、否、至難な場合が結構…しばしばあるものだと思い知らされてしまった。
聖書やホメロスをはじめ、ヘルダーリン、ベンヤミン、ハイデガーほか無数の固有名への解釈から立ち上がる、語と意味の翻訳(不)可能性をめぐる遠大な思索」という本書。

 哲学や文学に限らず、他人の思考や性分や嗜好の隅々を理解しつくすなんて、土台、無理。無理以上に無謀なのだと悟るのに、人様より随分と歳月を費やしたような気がする。
 高校から大学生の頃にかけては、世の中には古典と呼ばれる著作いうものがあって、いつかはその全てを読破できる…かのような幻想があったような気がした。
 その頃は、岩波文庫などを軸に本を渉猟していた。
 大半は翻訳書である。
 自分で語学の力を磨いて世の古典を読むってのは、学生になって早々に、とっくに諦めた。

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