闇夜の一灯
世界のあまりの広さと変幻の豊かさ。何が悪いとかいいとかなど、論外の淡々と続いてく世界。浮かんでは消えていく泡沫の命。須臾に結んでは解れていく形。
命を預かる生物たちの多様さはどうだろう。眩暈のするほどではないか。ライプニッツが、現実の世界を最善なものと見なしたのは、何故なのだろうか。
恐らくは、世界の多様性を、この上ない多様性を可能にしているからこそ、にもかかわらず世界が存立しえているからこそ、この世を至上の世界と考えたのだろう。何故なのか分からないが、<モノ>がこの世にあり、その<モノ>たちは、個々バラバラに粒子状に散在し終わるのではなく、水素と酸素がガッチリ結びついて水となり、炭素がその鎖を無数に連鎖させてやがては命の原初の土壌となる、まさに彼には予定調和としか考えられない神秘な仕組みを直感したのだろう。
(「『ダーウィンの危険な思想』…美女と野獣と叡智と」(02/04/13)より抜粋)
叡智は、時には眩しい、時には漆黒の闇夜の海の澪を誰もが孤独に辿って探り出すしかないのだ。
ただ、闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめないことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無数の蝋燭の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるいは望ましいと思う焔の形を演出しようとする。
たとえでき損ないの惨めな泡しか立てられないと自分で感じていたとしても、その泡が芳しいかそれとも貧相であるかは、自分では実は決して分からないのだ。だから、命の標(しるし)は孤独のなかにあっても、取りあえずは自分で守り育み芽吹かせることが大切なのだ。
いずれにしても、叡智は、感じ考え悩み思い巡らす、その日々の営みの中に芽生え育まれ熟していくしかないものなのだろう。
(「『ダーウィンの危険な思想』…美女と野獣と叡智と」(02/04/13)より抜粋)
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コメント
〉叡智は、時には眩しい、時には漆黒の闇夜の海の澪を誰もが孤独に辿って探り出すしかないのだ。
〉ただ、闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。
孤独は人生の薬でもあり、毒でもありますね。
小説を書く作業は孤独なものです。
その孤独にあらがうように他人に感想をもらって書き直し、文学賞に応募していました。
しかし、感想をいくらもらっても最後に決めるのは自分です。
昨年から、知人に読んでもらうことをやめました。
自分一人で書いては読み、書き直しては読む。
結果は自分一人で引き受ける。
小説だけでなく、芸術の、思索の原点が、孤独にはあるのでしょうね。
投稿: 滝川 | 2011/01/16 22:21
滝川さん
今夜、芥川賞・直木賞の発表がありましたね。二十代・三十代と皆さん若い人ばかり。
焦る?
>小説を書く作業は孤独なものです。
なるほど、書く作業は孤独だしつらいものかもしれません。
でも、その孤独を、書いたものを人に読んでもらって感想を貰うという形じゃなく、もっと大らかに、誰とでも、それこそ近所の方、立ち寄った食堂の人、たまたま乗り合わせた人とのお喋りで紛らわす、という方法のほうがいいのじゃないでしょうか。
小説や文学にこだわらず、森羅万象がお喋りの話題・タネになるし、場合によっては小説のネタにもなるやもしれない。
小説の元は、語りにあるような気がします。
自分との対話も大事ですが、世間の人とのお喋りという語りも、もしかしてもっと大事かもしれない。
世界が広がる思いがしますし。
>自分一人で書いては読み、書き直しては読む。結果は自分一人で引き受ける。
無論、そうでしょう。そうでなくっちゃ。
だからといって、自分の世界を狭くする必要もない。
泥水も場合によっては甘い水かもしれない。
清濁、併せて、飲み干しましょう。
投稿: やいっち | 2011/01/17 22:26
モノとしての孤独はどんな説明のしかたでも、納得できた気になります。
こころが面倒で、違う違うと言ってきます。
ない、って思いが面倒です。
そこにあったはずのモノが、いまはもうないときに、
ない、ってことを観てしまう。どこかにあるのに。
孤独は、僕の孤独と誰かの孤独は中身が違うのかもしれない、ってことにも現れます。
では、誰か、他者があっての孤独かな。
人とまったく関わらなければ、そもそも孤独を感じることもないのかな。
では、世間の人とのお喋りは、僕を孤独に向かわせることを覚悟の上で。
誰かが、死ぬ、ってことは、
僕に孤独の意味を教えて、死んでみせることで、さらに孤独にさせることかな。
二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナツタラナホ淋シ、
シンジツ二人ハ遺瀬ナシ、
ジンジツ一人ハ堪ヘガタシ。
他ト我、北原白秋
投稿: 青梗菜 | 2011/01/18 10:19
青梗菜さん
誰よりも人にまみれている人こそ孤独の念が深いのかもしれないですね。
ずっと隣に居たのに、分かってもらえていない、分かっていなかったと気付くこと。
十何年も付き合って、互いの齟齬に気付いたり、解けない誤解を引きずったまま、その奇妙によじれた関係が固定し仕舞う。
やがて膿んで。でも、瘡蓋のように乾いてパッと剥がれてくれることもなく。
>他ト我
我こそは他、なのは当たり前なのかな。
投稿: やいっち | 2011/01/18 23:18
やいっちさん、ご指南ありがとうございます。
リルケが、孤独は狂気という最悪のものも生むが、詩という最良のものも生む、と言うようなことをいっていました。
孤独が生んだ文学といえば、H.D.ソローが二年以上独りで生活しながら書いた『ウォールデン―森の生活』がありますが、あれは真似できない。
罵詈雑言をいって愚痴を吐き、女の尻を追いかけて、たまに孤独になる。
そして内省しつつ小説が書ければなあと思います。
>青梗菜さん
無いという状態において有る事物、を記号学ではゼロ記号といいますが、「ないということ」、ゼロの概念はチンパンジーには理解しづらく、人間特有の概念だといわれていますね。
椅子の上に林檎を置いて「有」。
椅子の上に林檎を置かないと、ただの椅子になってしまい「林檎が無い」とはならない。
林檎にバッテンをつけて「無」を表現しても、林檎はあるじゃないか、ということになる。
基本文献としてはフロイトの「快感原則の彼岸」において、幼児が母親の在と不在を糸車と発話による象徴行為による操作を獲得したことが書かれています。
自我と他我は、位相幾何学的にいえば、内側であり外側でもあるクラインの壺ですね。この壺の外に本当の他者がいる。
映画「マトリックス」でいえば、本当の他者がいる世界は、マトリックスの外ですね。
内省はマトリックスの内側にとどまることでしょうが、その内省を極めて、自己のなかの我と他我がぶつかりあうような小説が書ければいいな、と思います。
自己のなかの他者性をポリフォニックに描くことこそ、文学的なことだと思いますので。
それはリルケのいうように(孤独の)狂気を孕んだものになるでしょう。
投稿: 滝川 | 2011/01/19 00:00
国見さん、どうも。
モーリヤックの「蝮のからみあい」を思い出しました。
しかしまあ、どうでもいいけど、ヤクザ映画のような邦題でちょっと恥ずかしい。
例えば、「憎悪と吝嗇」みたいな小難しいタイトルなら、もっと名作になってましたね。
ブログのネタになりました。
孤独の反対語は孤独、と結びます。
お題をいただいて、感謝しています。
滝川さん、毎度。
物語にすれば、
椅子に林檎を置いて、林檎がある。
林檎を取り去って、林檎がない。
小説はそこから書き始めて、
読者は林檎があるともないとも思わない。
読み進めて、林檎があったことを知る。
林檎がなくなったことを知る。
安直ですが、読んでておもしろい小説の典型です。
仏教でいえば、有と無と空。
ゼロは空、プラスでもマイナスでもなく、
餅のようにふくらんで、中身がない記号。
発明というか、発見というか。
大切なものは失うまで気づかない、
そんな有や無に関する物語はいくらでもありますが、
空は読むほうも疲れますから短編で。
我と他我がぶつかりあう前に、
僕は簡単に自分に嘘をつくので困ります。
他人にはなるべく嘘をつかないようにしているのですが。
小説の主人公はなんでそんなに正直なのだろうと思うことがあります。
僕なら、過去なんか意識しなくても都合よくねじ曲げてしまいます。
自分に嘘をつかない、それだけでも僕には狂気の沙汰です。
投稿: 青梗菜 | 2011/01/19 01:09
滝川さん 青梗菜さん
お二方のやり取り、味わってました。
小生などが口を挟まず、もっと、いい意味で応酬し合うのを楽しみたかった。
いきなり余談っぽくなるけど、孤独の影を描いた我が作品に、「窓辺の影」があります:
http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/2008/07/post_bafc.html
どうも、悪無限…縮小再生産のようです。
投稿: やいっち | 2011/01/21 21:33