スタイナー それとも死に至る病としての言語(承前)
← セーレン キルケゴール (著)『死にいたる病』(桝田 啓三郎 (翻訳) ちくま学芸文庫)
余談だが、本書『バベルの後に 下』を読みながら、脳裏の片隅を…というより、頭蓋の中をずっと『死にいたる病』の冒頭の一節が鳴り響いていた:
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。(…)総合というのは、二つのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。(…)このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体とのあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。(p27)
(「セーレン・キルケゴール『死にいたる病』/『死に至る病』第一編を読む(上) - ブログタイトルが決められない」より転記。)
小生は、キルケゴールのこの卓抜な、悪無限的な意識と言葉の際限のない、ジェットコースター的螺旋運動的言辞を、たとえば、ある拙稿の中の引用文にて遊戯劇な応用を試みている。
ジョージ・スタイナーのこの長大な論考は、見事なものだろうが、ある意味、キルケゴールのこの一文に凝縮される…、少なくとも詩的に哲学的に宝石となって輝いているように思える。
大急ぎで脱線から立ち戻って…。
有るということの不可思議。
際限のない時空の只中に在って、いや、宙ぶらりんとなって、窓のない、出口のない、閉じた狭苦しい、人によっては脳髄とも呼ぶらしい、湿気た陋屋にあって、心の限りを尽くし、想像の限りを尽くしても、自分などにはまるで手の届かない、はるかな想像と思考の彼方を行く、能ある人々。
そんな人々にあってさえ、自分には遥かに高峰を登攀し、あるいは大洋の只中を漕ぎ出していると思われる人々であってさえ、それとも、そういう人々だからこそ、底のない、天井のない、この世界の際限のなさをつくづくと思い知らされる。
共感する心、(分かるという言葉が生意気で無粋だとしたら)ふと、あっ、こういうことなのかと、ただ納得する、それがせいぜいだったりする。
そうはいっても、人は一歩一歩、進んでいくしか他に何が出来よう。
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