スタイナー それとも死に至る病としての言語(後編)
← W.ジェイムズ (著)『宗教的経験の諸相 上』(桝田 啓三郎 (翻訳) 岩波文庫)
しかし、幾許かの人々は、ある日、超えてはならない一線を超え、大地が決して強固ではないこと、大地は実は太古の神話にあるように、巨大な海に漂っているのであり、その海さえも宇宙の中に何に支えられることなくぽっかりと浮かんでいるに過ぎないことを実感する。足元の大地が割れる。亀裂に飲み込まれる。しかも、一旦、亀裂が生じ始めたら、その罅割れに終わりがないことを気が狂うほどの恐怖と共に実感する。この日、彼は二度目のある意味で本当の誕生を経験するのである。
(拙稿「ウィリアム・ジェームズの命日に寄せて」より抜粋)
いきなり話の脈絡を飛ばしてしまった。
スタイナーの書は、翻訳論の書であるが、言語論の書でもあり、文学や詩や音楽などの芸術論の書でもある。
人は原書であれ、翻訳書を通じてであれ、一体、何を読んでいるのだろう。
翻訳書がもどかしいとしたら、原書だったら著者(の想像)の世界に一層、近づける、はずなのか。
詩に音楽を付した、歌曲(歌謡曲であってもいいはず)だったら、どうだろう。
詩(歌詞)だけだったら、つい、詠みとばしてしまうはずが、メロディやリズムが言葉と相俟った時には、言語が呪力のようなものを持つようにさえ、思えてしまうときがある。
原詩より詞に力が篭っていると思えてならないことが往々にしてある。
平凡なはずの詩が、詩の詞(ことば)が、言葉が、フレーズが、音(楽)の時空で屹立する。
極論すると、読むとは、すべからく翻訳すること、自分なりの伴奏を施すことなのではないか。
敢えて読むとは誤解すること、とまでは言わないとしても。
(そもそも理解しようとする努力そのものが誤解のタネであることは言うまでもないこと。だからこそ、言語は多様化の一途をたどるしかなかったのだろう。その一方で、米国語の世界標準化という趨勢があるが、万が一、世界標準語としての米国語(であろうと何であろうと)が成り立ったとしても、その標準の中で、再度、世界での多様化現象が繰り返されるに違いない。仮に、エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky)の言うような、「全ての人間の言語に普遍的な特性があるという(生成文法という)仮説」が成り立っていたとしても、現実には言語は多様化するほかにありようがないのではないか。)
言葉と言語との違いすら、小生には分からないが、それはそれとして、言語の織り成す時空は、きっと人間だけの呪力の場なのだろう。
だとしたら、読むとは、呪力の源泉を掘り当てることへの意思のことなのかもしれない。
『バベルの後に〈上〉』を読んでの、感想にもならない呟きは、下記にて:
「スタイナー それとも原初の単一言語(後編)」
「言語」を多少とも論じた拙稿:「『メルロ=ポンティ・コレクション』(3)」
「吉本隆明著『言語にとって美とはなにか Ⅱ』」
「矢沢サイエンスオフィス『知の巨人』(続)」
「初鏡…化粧とは鏡の心を持つこと?」
「ジェットコースター的、遊戯的男女考察」
「ウィリアム・ジェームズの命日に寄せて」
(11/01/03 作)
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