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2010/10/23

路肩の枯れ葉

…差し出そうとすると、その力が反動となって、自らの身体(心)を砂地獄に埋め沈めていく。砂の海に溺れることを恐怖して、ただ悲鳴の代わりに手を足を悪足掻きさせてみたところが、その足掻きがまた、我が身をさらに深い砂の海の底深くへ引っ張り込まさせる結果になる。

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 私とは、私が古ぼけた障子紙であることの自覚。私とは、裏返った袋。私とは、本音の吐き出され失われた胃の腑。私とは、存在の欠如。私とは、映る何者もない鏡。私とは、情のない悲しみ。私とは、波間に顔を出すことのないビニール袋。

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2010/10/22

月下に孤影

 秋というと、ただ一言、月見の秋に尽きる
 四季の区別が曖昧になってきた今日にあって、僅かに残る季節感を覚えさせるものというと、小生が思うに月影ということになる。

 秋になっての月がほかの季節と趣が違って感じられるのは、やはり、空気の違いの故だろう。気温もあろうし、天空を過ぎる高さもあろうが、主に湿度の違いと理解していいだろう。

 夏の夜だって、梅雨の時期だって、空が晴れていれば、昼間は無理としても、夜には月を拝むことができる。
 そう、月は一年を通して、天候にさえ恵まれれば、新月(や、その近辺)でなければ、夜空で照っている。別に照れているわけじゃないのだろうが、とにかく照っている。

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2010/10/21

サイエンス・イメージは美しく楽しい!

 いつの頃からか、ジョン・D. バロウの著書のファンになった小生、目に付いたら即、手にし、分からないところがあろうと、強引に読んでいく
  ジョン・D. バロウ著『美しい科学〈2〉サイエンス・イメージ』(桃井 緑美子【訳】 青土社)も、迷わず手に取った。

Mandelbrot_set

→ 「マンデルブロ集合(Mandelbrot set)」  「マンデルブロ集合」とは、「複素平面上の集合が作り出すフラクタル」。その集合を画像で見ると、「ヒョウタンのような図形の周囲に自己相似的な図形が無数にくっついた形状をしている」。「どんなに細かい部分でもかならず全体とそっくり同じ形をしている」!「マンデルブロ集合はジュリア集合に対する指標としてブノワ・マンデルブロによってつくり出されたもの」だが、そのマンデルブロ氏も、過日、亡くなられたばかり。小生がこの図像(集合)に初めて出合ったのは、(ご他聞に漏れず?)ジェイムズ・グリック 著の『カオス―新しい科学をつくる 』( 大貫 昌子 訳 新潮文庫)においてだった。とても読みやすい、且つ面白い本で、カオスやフラクタクルの世界を垣間見ての衝撃は今も鮮明だ。

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2010/10/20

夜の果ての天の光

 月をジッと眺めあげていると、誰しも、月の面に淡い文様を見出す。煌々と照る月、未だに自ら光るとしか直感的には思えない月、その月は、その表面の文様を見分けることを許すほどには、優しい。

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← 今年も庭に咲いてくれた「ほととぎす」。何の世話もしていないのだけど。

 優しいのだけれど、秋の空の満月は、やはり、凄まじい。空にあんな巨大なものが浮かんでいるなんて、信じられなくなる。ポッカリ、浮いて、どうして落ちてこないのか、不思議でならなくなる。

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2010/10/19

何のために走るのか

 風が吹く。唸っている。オートバイが揺れる。木の葉のように、渓流に流した笹舟のように揺れまくる。風景がシールドの端を飛び去っていく。雲が分厚い。真昼間なのに、宵闇の暗さだ。
 雨がヘルメットのシールドを叩く。雨滴がシールドに礫のようにぶつかってくる。雨滴の、容赦なく砕け散る音が耳を劈く。

 痛切な孤独が俺を癒す。この世から逃げ去るような、それとも風雨の断崖に頭から突撃していくようだ。
 タイヤが滑る。タイヤが鳴る。路面と、僅か名刺大ほどの接地で、かろうじてバイクは大地と繋がっている。悲鳴を上げるタイヤのゴムは、究極の命の絆なのだ。


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2010/10/18

私が<それ>になる夜

 宇宙の永遠の沈黙。
 それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。
 神の目からは、これもそれも彼も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、吹き飛ばされたフケや搾り出された脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない大腸菌たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱い、あるいは冷たい眼差しの先に雑然とあるに違いない。

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2010/10/17

狐の嫁入り

 話は、私がお袋の田舎である新潟へ連れられて行った時のことだ。
 お袋は囲炉裏のある十畳ほどの広い部屋で、田舎のみんなとお喋りに興じていた。お袋の姉夫婦やお袋の姪っ子、甥っ子、それに部屋の隅っこには、柱に凭れるようにして、お袋の母、つまりはわたしの祖母に当たる人も、にこやかにみんなの楽しげな様子を眺めていた。
 祖父に当たる人がいたのかどうかは覚えていない。

 驚くほど高い天井は煤で真っ黒で、幼かった私は火が燃え盛って焼け焦げた跡なのかと思っていた。
 やたらと広い玄関の脇の囲炉裏の間の隣りには、これまたさらに広い座敷があって、何か特別な時でないと使わない開かずの間になっていた。
 何故か、囲炉裏の間と座敷を仕切る襖が僅かに開いていて、その透き間から薄暗い座敷をみんなのお喋りに乗り遅れたわたしは、恐々覗いていた。

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