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2010/01/30

「とめはねっ !」の代わり(?)の石川九楊著『書』

 テレビでは、河合克敏による書道を題材とした日本の漫画作品を原作としたテレビドラマ作品『とめはねっ ! 鈴里高校書道部』(書道監修は武田双雲)が1月7日からNHKで放映されている。
 原作の漫画は読んでいないし、NHKのドラマは話題になっているようで、気になるのだが、生憎時間帯が小生には悪く、テレビを見ることのできる環境にない。

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→ 「2001年9月11日晴――垂直線と水平線の物語(I上)」 「おぐにあやこの行った見た書いた 記事84◆書家、石川九揚さんのインタビュー記事」によると、「「垂直線」は空にそびえ立っていた世界貿易センタービル。「水平線」は2機の飛行機が青空に残した航跡だ。キリスト教を背景とする市場原理主義と、イスラム原理主義との宗教対立をも象徴しているという」。実物を見ることができた人が羨ましい。 (画像は、「垂直線と水平線の物語 番長帳」より)

 だからというわけではないし、テレビドラマの「とめはねっ !」を予感したわけではないが、まあ、正月だからだろうか、たまたま年初に図書館に寄って、美術書のコーナーを物色していたら、本書を発見。

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2010/01/29

日野草城……病臥なればこそ知る肉の身か

1月29日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日29日は日野草城の忌日だという。
 今日は「草城忌」なのである。
 拙稿「草城の句境を知らず人は過ぎ」にて、大よそのことをメモしてみたことがある。

 以下、拙稿から当該部分を転記して示す。

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→ 室生幸太郎編集『日野草城句集』(角川書店2006年1月29日再版)。「生誕100年にあわせて編纂された日野草城句集がこのほど没後50年ということもあり再版されました」とのこと。

 日野草城については、拙稿を除くと、本ブログで採り上げたことがない。
 僅かに、「初鏡…化粧とは鏡の心を持つこと?」にて「初鏡娘のあとに妻坐る」を、「冬ざれ」にて「冬ざれのくちびるを吸ふ別れかな」を挙げているだけである。

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2010/01/28

ドストエフスキーの<命日>にちなんで

 今日1月28日は、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoevsky)の(ユリウス暦では)命日(1881年)である(但し、グレゴリオ暦だと1881年2月9日)。

 いろんな小説家の作品を読んできたし、読み浸った作品もあるが、何と言ってもドストエフスキーの存在が小生には一番、重い。
 ドストエフスキーの小説は、長短に関わらず、どの作品も最低、3回は読み通している。
 全文を読みきれなかったのは、『作家の日記』で、どうにも退屈でとうとう途中で投げ出してしまった(所収となっている小説だけ、拾い読みしたが)。
 全集は二種類、揃えたし、数年前も、『罪と罰』を読了している

 関心を抱く作家(書き手)については、伝記本や評論の類いも読み漁って作家の人となりを少しでも深く知ろうとしたり、あるいは作品の理解を深めようとするものだが、唯一、ドストエフスキーについてだけは、(伝記本で彼の生涯の何がしかを知ることはあっても)、どんな評論を読んでもほんの少しでも理解を深めてもらったという記憶はない。
 生意気なようだが、自分がドストエフスキーの作品を読んで受ける感銘の幾許をでも、解きほぐしてくれたとは全く思えなかったのである。

 私事で忙しく、今は改めてドストエフスキーについて書く余裕がない。
 ドストエフスキーを初めて読んだ時の昂奮を綴ったエッセイもあるが、ここでは、数年前に書いた雑文『ペチカ…サモワール…ドストエフスキー』から一部を抜粋させてもらう。
 この日記を書いた際には、小生は『罪と罰』の(少なくとも)六度目の読了と相成ったものだった。

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2010/01/27

『相棒』……エルガー『愛の挨拶』を求めて

 テレビドラマ『相棒』は、特に寺脇康文さんの演じる亀山薫が辞めるまでのものは、結構、好きで見ていた。
 再放送も、録画までして見ていたほど、好きな番組の一つだった。
 水谷豊さんの演じる杉下右京と亀山薫とのコンビネーションも良かったのだろう。
 それぞれの演技もいいが、二人が絡み合うことで持ち味が相乗効果式に一層、深まったものと思う。

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→ 「相棒 Classical Collection:杉下右京 愛好クラシック作品集 (画像は、「テレビ朝日|相棒season8」より)

 ところで、このドラマ、主人公(の一人)の杉下右京の好み…というよりプロデューサーか演出家、音楽担当の方の好みなのだろうが、クラシック音楽がよく使われる。
 好きな曲、耳馴染みの曲もあれば、クラシックに(も)疎い小生には初耳と思しき曲も流れてくる。

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2010/01/26

「天神様信仰と梅の花」再掲

 過日、8年ほど前に書いた旧稿である「天神様信仰と梅の花」にちょっと脚光を浴びせてもらった。
短詩・樹花たまには歴史の歳時記」である「めぐり逢うことばたち」を運営されているかぐら川さんが同上ブログの記事で参考記事として紹介してくださったのである。
 嬉しい反面、ちょっと忸怩たる思いも過(よ)ぎった。

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← 昨年の正月の奥座敷の光景。父が整えた。「12月25日から1月25日に飾るのが本来」だが、今年は、飾りを片付ける必要はなかった……。 (画像は、拙稿「年越しの銭(?)はありません!」より)

 上掲の拙稿の冒頭で、「小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした」とあるが、これが実に問題なのだと気付かされたのである。
 そもそも「我が郷里・「富山」は、天神様信仰が古来より盛ん」だとして、その富山とは富山県(全県)なのか、富山市なのか、あるいは富山と言いながら、実のところ、小生の近隣(近所)だけってことはないのか、などなど、曖昧なのである。
 天神信仰は、富山(のどの辺りなのかは別にしても)だけではなく、全国各地(複数の地域)にあるらしい。
 その辺りを小生は全く調べないまま、放置してしまっていたのだ。

 この点については、例えば、「天神信仰 - Wikipedia」では、天神様を祀る風習について以下のように記されている:

これ(天神信仰に関わる風習)は幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。

 問題点など、調べるべきことも含め、改めてかぐら川さんのブログ記事(「天神様をお送りする」や「「天神祭」の不思議」など)を読んでもらうとして、再掲となるが、拙稿を旧稿のままに改めて本ブログに載せておく。

                           (以上、10/01/25 記)

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2010/01/25

『百人一首ハンドブック』で正月気分

 正月だから、だろうか、今月上旬、図書館に寄ったら、新入荷本のカウンターに久保田 淳【監修】『光琳カルタで読む百人一首ハンドブック』(小学館)があった。

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→ 未明。ある寺の境内の光景。灯明なのか、闇夜を導く…何処へ?

 うむ。確かに正月である。元旦とは言いかねる日と相成っていたが、正月には違いない。
 たまには、床しい和歌を詠んでみるのもいい。

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2010/01/24

複素数から虚構を想う

 加藤文元著の『物語 数学の歴史』(中公新書)を読んだ。
 その感想(にもならない感想)に過ぎないが、既に若干のことを書いた
 その稿を書きながら、以前、似たようなことを想ったことがあったし、思いつくがままに綴ってみたなと、探していたら、もう6年前となる拙稿が見つかった。

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← 昨日までの寒気の緩みで、積もっていた雪の大半が溶けてしまった。シャベルで懸命に雪掻きしても消えない雪も、雨にはあっさり負けてしまう。けれど、今日からまた寒波の襲来である。天気の急激な変化を今日ほど感じたことはなかった気がする。昨夜半の曇りに始まって、雨、霰、雪、曇り、晴れ間、雨、霙、雪…。昨夜半には稲光と雷鳴。さすがに矢だけは降らなかったけど。

 我ながら一向に発想が深まっていないのは情けないと感じつつも、やはり何かしら懐かしい気になってしまう。
 虚の世界。ネットの世界はどうなのだろう。

 時々、ドラマなどで、ネット(や携帯やパソコンなど)を嫌う年輩の小父さんが、あるいは評論家が、架空の世界じゃなく、現実の世界が大事とか、実際に会って話するのが大事とか、したり顔で言ったりする場面を目にすることがある。
 しかし、今更ながらだけれど、虚といいながら、現実と引き合うほどにリアルであることは言うまでもないだろう。

 そもそも、現実だって、人によっては現(うつつ)と喝破することがある。
 別に自分までが、「世の中は鏡に映る影にあれや在るにもあらず無きにもあらず」とか、「現とも夢とも知らぬ世にしあればありとてありと頼むべき身か」(『金槐集』)とか詠った源実朝ほどに透徹した世界観を標榜するつもりはないけれど。

                             (以上、10/01/23 記)

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