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2010/12/19

スタイナー それとも原初の単一言語(後編)

 ジョージ・スタイナーの著書は(ほとんどが)日本語にも翻訳されていて、小生も、『トルストイかドストエフスキーか』(中川敏訳 白水社)や『言葉への情熱』(伊藤誓訳 叢書ウニベルシタス・法政大学出版局)などを読んだことがある。

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← (月)命日でも何でもないが、今日は天気もいいし、お墓掃除に。寒い中でも生え始めている雑草などを毟ってみたり。背後の新しくて立派な墓に比べ、我が家の墓は…。せめて綺麗にだけはしておかないと。

 記憶があいまいになっているが、『ハイデガー』(生松敬三訳 岩波書店[岩波現代選書])も、大学卒業近くか、卒業しても先の当てもなくてブラブラ、アルバイトしつつ暮らしていた頃に読みかじったような。
トルストイかドストエフスキーか』などは、著者が30歳になる前に書き上げ、高い評価を受けたもの。

 小生が、スタイナーの諸著を読んでの感想は、「読書拾遺(サビニの女たちの略奪)」や、特に8年前には、「ジョージ・スタイナー著『言葉への情熱』、あるいは、電子の雲を抱く」なんて大仰な題名の感想文(にもなっていない、呟き)を書いたことがある。

 本書は、先ずは翻訳論の書である。英独仏語(これらだけじゃない!)に通暁した著者ならではの原書と訳書との間の齟齬、その前にそもそも訳すとは一体、どういうことなのかをも論じる。
 バベルの塔の逸話は、人間の傲慢への罰として破壊され、誰もが唯一の言葉で意思を疎通し合っていた、夢のような状態から追放される。
 それは、アダムとイブの楽園からの追放とも重なるようでもある。
 かつては、楽園にあった人間が、数知れない言語・民族に分裂してやまなくなる…わけじゃないとしても、互いの意思の齟齬や嫉妬や打算や夢の違いに苦しめられることになる。

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→ お墓参りのつもりで行ったわけじゃないが、せめてお花を飾りたいと、庭に育っている寒菊や南天などを。

 意思の疎通が成り立たない。翻訳(通訳)という営為の生まれるゆえんである。
 諸言語の間の通訳(翻訳)だけではなく、同じ言葉を共有する者たちの間にあってさえ、人は誤解を宿命付けられているようでもある。
 意思を交わそうとして言葉を駆使し、逆に言葉の行き違いか、単なる誤解なのか、言葉を使えるがゆえに、誰もが孤独への世界と堕ちていく。
 極論すると、翻訳が可能かどうか、をとっくに過ぎて、意思の疎通は可能なのか、という問いへ至らざるを得ない…はずなのである。

 あれこれ言っていても、小生は、これまで(そしてこれからも!)さまざまな(外国語からの、日本の古文からの)翻訳書の恩恵を被ってきた。
 原作と完璧に一致する翻訳など、ありえないと思いつつも、翻訳者を信頼し、訳書を読んできたし、これからも読んでいくだろう。
 でも、時折、一体、自分は何を読んでいるのか、不安になることがある(しばしば)。
 特に詩文の類はそうだが、文学書は、もどかしさに苦しくなることがある。

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← ジョージ・スタイナー著『トルストイかドストエフスキーか』(中川敏訳 新装復刊版 白水社)

 現人類(につながる我ら)の祖先が5万年前アフリカを出たとき、その集団は、一つの言語を有していたのだろうか。それとも、片言…単語を吼え、叫び、喚いていただけなのか。
 でも、いずれにしても、同じ集団の中では意思の疎通が成り立っていたはず。
 おそらくは、一つの(血縁)集団だったのかもしれない。
 それが、世界に散らばる過程で、数千を超える言語集団に分化・分裂していった、という構図を描くのは安易過ぎるだろうか。
 なぜに言語は、地域や集団毎に変化していくのか。

 多言語・複数言語という現実にあっては、多言語に通暁するしかないのか。翻訳とは、一体、何を基準に訳しているのか。
 日本なら俳句や和歌や詩を他国語に訳せるとは(全くの語学の素人たる)小生には、到底、可能とは思えない。
 英語に訳された俳句を読んでも、味わいは分からない。英語における和歌や俳句って?

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→ 午前、松などの剪定をしたが、午後、またも刈り込み作業に。終えたのは四時過ぎだったろうか。家に入ろうとして、玄関の戸を閉めようとしたら、東の空に月影が。


 古代ギリシャ語ならではの表現が、意味はともかく(それすら怪しい)、ニュアンスの隅々までを他国語に、いずれの言葉であるにしろ現代語に訳すのは無理だろうとも、スタイナーは語る。

 原初の単一言語というのがそもそも幻想なのではないか。
 出アフリカの集団は、単一共通の言葉(言語)を持っていたと想定していいのだろうか。
 単語(指示代名詞的なもの)は数々あっても、そこにあるのは、意思の疎通…というより、集団のボスの力による命令(腕力による強制)だったのではないか。
 つまり、会話などあったのだろうか。
 似たようなものはあったのだろうが。

 現下においては、世界の共通語は英語(というより米語)になりつつある。
 各国語の言語はそれなりに使われるだろうが、グローバル化の波は、まずは少数民族の言語を呑み込みつつあるし、英語のラフさに寄りかかりつつあるようにも感じる。

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← ジョージ・スタイナー著『言葉への情熱』(伊藤誓訳 叢書ウニベルシタス・法政大学出版局) 「古典古代から現代までの文学・哲学・芸術・科学にわたる該博な知識を基盤に独自の娠界像を提出する「脱領域の知性」の最新評論集。危機に瀕したヨーロッパ文化をユダヤ人の眼で異化しつつ、現代世界の病理を「言葉」の根源から抉る」という。科学への造詣も深いが、理解(説明)に紋切り型を感じることもある。

 中国には、チベットだけじゃなく、さまざまな民族や言語をやがては中国語に統一していく意思を感じる。
 そんな中にあって、日本語は島国だけに通じる、ガラパゴス言語として細々と余命をしばらくは保っていくことになるのだろうか。やがては、米語か中国語か、今後、勃興してくる何処かの言語に呑み込まれていく運命なのだろうか。
 だからといって、意思の疎通が容易になるわけでもなさそう。
 多くの少数派言語が消滅していくように、小さな泡のような呟きは大きな波に呑み込まれるばかり、なのかもしれない。
 

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