寒菊の身を寄せ合へし輪の恋し
今朝の夢も変なものだった。
夢の内容の大半は、いつものことだが、綺麗さっぱり起きた瞬間に忘れ去ったが、最後の数場面だけ、辛うじて覚えている(それだけでも、小生には上出来である。大概は、夢を見ていたようだったがという印象しか残らないのだから)。
← 明日、9日は、父の月命日なので、仏壇の花、それと、仏花というわけではないが、玄関ホールの花瓶に生ける花を各種、買ってきた。ざっくり選んで、ざっくり生けてみた。誰も来ないだろうけど、せめて、花だけでも。
発表会か講演会の会場へ小生は(誘われて?)行った。案外と少ない人数の会場。とても講演をするような会場ではなく、どことなく厨房の周辺に無理やり椅子を並べたような印象。なぜか、小生も講演で自分の意見を発表することに決まっているらしい。
小生の手元に資料らしいものがクリアーファイルに仕舞われている。が、中の書類が乱雑で、順番もバラバラ。これじゃ、とても喋れるはずがないじゃないか! と小生は戸惑っている。
戸惑いの中には、小生には話したいことが山のようにある、だから、志願して講演乃至は発表会の会場に来たのに、いざ、会場にの指定された(残った)隅っこに坐ってみると、勝手が違う。何を喋ればいいのかも分からない。書類もいい加減、といった当惑の気持ちも含まれているようだった。
なんだか、小生がこの季語随筆を綴る際の右往左往振りにも似ている。
一応は、季語(季題)の表を眺めて、これにしようと、何かの季語などを選ぶのだが、選んだ瞬間には、ほんの一瞬、こんなことなど書けるかもと閃きのようなものが浮かぶのだが、それは大抵は夢幻のごとくに潰え去り、何を書けばよかったのか見えなくなり、そもそもなんでこの季語を選んだのかさえも、まるで分からなくなってしまう。
敢えてこじつけるなら、かなり強引だとは思いつつも、表題に「蕗の薹(ふきのとう)」を選んだわけというのは、寒さが厳しい、寒さがぶり返しているけれども、そんな中、蕗の薹の健気な姿など垣間見て、春の到来を待ちわびる気持ちを綴ろう、春の到来を草木の芽吹きの中に探ってみようと思ったのだった…、ということになるかもしれない。
→ ナナカマド(七竈)だろうか、青空に映えている。盛りの時期は過ぎたようだけど。
戻り道。家があって、そこに戻る。でも、戻ってどうなる、という気持ちが先に立ってしまう。迷い道にあっても一人であるように、戻っても、所詮は一人であることに変わりはないのだとしたら、迷子のままでありつづけるしかないのだとしたら、何もシャカリキになって迷路から脱け出る必要などない。このままでいいじゃないかと思われてしまう。
それが大人ということ、年を取るということ、なのか。
何処から来たのか、振り返っても真っ暗闇の不気味な世界が茫漠と広がっているだけで、まるで分からないように、行方にしても、もっと深い闇へと進むしかない。この場に止まっていたい、何かにしがみ付いていたいと思っても、時は迷子の魂を押し出していく。
遠い昔、地球が丸いのかどうか定かではなかった頃、太平洋の先は、急に滝になっている。それも、流れ出した水の落ち行く先も見えないほど巨大な滝になっている、などと想像していたとか。海の彼方には大陸が取りあえずはあったけれど、時の潮流に笹の舟にも乗れないで漂う者は、もっと不安なの…だろうか。
← 寒菊だろうか、試しに裏の帯状の花壇に植えてみたら、こんなに育ってくれた。何も与えていないのに育つとは、よほど土壌がいいのか。
寒菊の身を寄せ合へし輪の恋し (や)
冬の寒さが辛いから、春の到来を待つ。でも、それは時という魔のとんでもない罠なのかもしれない。春など待たなくてもやってくる。誰に断りもなく、無論、この自分の気持ちの如何に関わらず、容赦なくやってくる。
だったら、それこそ、今を感じる。今という時の中に、感じ想い考え想像しえるかぎの豊穣を示しえるかどうかが大切なのだろう。
[「蕗の薹(ふきのとう)」(2005/02/13)より]
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コメント
「急に滝になっている。それも、流れ出した水の落ち行く先も見えないほど巨大な滝」のような図解は見たことがありますが、どう考えても理屈に合わないので一体誰が図示したかを不思議に思ってます。
天動説において、少なくとも流れる水に相当するだけの入水が雨などのような形で補給されなければいけないわけで、何処からその水が湧き出ているかですね。恐らく地下水源が巡廻しているのでしょう。そのあたりの説明が重要です。
創世記を読み直してみなければいけませんが、陸地と海が別けられて、たとえ無尽蔵な恵みがあるとしても、少なくともヘレニズムとまでは言わないまでも直感的な合理性が無いことには信心は獲得できません。
「何処から来たのか、振り返っても真っ暗闇の不気味な世界が茫漠と広がっているだけ」は、まさに寅さんの仏話ではないですが、「生まれてくるのも死ぬのもひとり」でしょうか。
投稿: pfaelzerwein | 2010/12/09 04:45
pfaelzerweinさん
確かに、「天動説において、少なくとも流れる水に相当するだけの入水が雨などのような形で補給されなければいけないわけで、何処からその水が湧き出ているかですね。恐らく地下水源が巡廻しているのでしょう。そのあたりの説明が重要」だと思います。
ずっと昔、「急に滝になっている。それも、流れ出した水の落ち行く先も見えないほど巨大な滝」のような図解は見たことがありますが、メカニズムなどの説明は一切、なかったような。
それより、航海などの果てに、この世の果て、地の(海の)果てに行く手を阻まれ、地獄(奈落?)の底へ落ちていくという、その恐怖を駆り立てようということだったのか。
あるいは、エッシャーの描く「滝」やループ状階段のように、巨大な瀑布を落ちた水は、また循環して、大洋の海水として戻ってくる、ということなのか。
まあ、愚人はそこまで理詰めで考えてなくて、むしろ、情緒的に(自業自得的に)勝手に土壇場へ追い詰めているってことじゃないでしょうか。
絶海の断崖絶壁も、そういった比ゆに過ぎないことは言うまでもないことです。
投稿: やいっち | 2010/12/09 21:23