常緑の葉、冬に咲く花
それにしても、東京の都心という厳しい環境にあって、よくめげることなく木々や花々が育つものだと、無知な自分はひたすらに感心する。というより、圧倒されたりすることもある。
太陽の光が燦燦と降り注ぐ。その中、緑は濃くなり、幹や茎は伸びあるいは太り、花は思い思いの装いを凝らす。
← とある川の堰堤にて、一羽の鳥を見かけた。サギ? 実を屈めるようにして川面を眺めていた。
見て愛でているほうは、ただ陽光をタップリ浴びて、植物は気持ちよさそうなどと思っているだけだが、しかし、よく見ると、日差しは情容赦なく木や花に突き刺さっている。逃げもせず、よくも植物は耐えているものと思ったりする。
そんなツツジなども、五月も半ば頃となると、さすがに日の光を浴びすぎたのか、淡い紫というか目に鮮やかなピンク色の花も元気を失いかけている。中には茶褐色に変色し、明らかに萎れてしまっているものも見受けられる。
太陽の光を浴びるという恩恵なしでは、直接か間接かはいろいろあっても、生きものは生きられない。それはそうなのだけれど、しかし、ジリジリと照り付ける直射日光の強烈な日差しは凄まじいものがある。なのに、花が長く咲きつづけ、緑はますます濃くなっていくのは、一体、どうしたものなのだろう。
訳の分からない直感というか思い込みの中で、緑が溢れる光の中でその色を濃くするのは分かるような気がするが、花がその彩りを鮮やかに保てるというのは、不思議な気がしたりする。
花が可憐だというのは、事情を知らない者の勝手な思い入れに過ぎないのか。弱き者よ、汝の名は女なりと思っていたら、案外どころか、とんでもなく逞しかったりするように、華奢そうな花びらの、その実の光に貪欲な本性が、見かけのたおやかさやしなやかさ、触れなば落ちんという風情の陰に潜んでいるということなのか。
人間や動物等は、全身が毛に蔽われているか衣服に守られているか、そうでなくとも、耐えがたければ、日陰を求めて移動することもできる。
→ 裏の車どおりに面する花壇に植えた寒菊が咲き誇っている。
が、植物は、ましてグリーンベルトとして使われている街路樹となると、とことん、太陽からの放射線をまともに浴びつづける。ともすると浴びすぎると致命的ともなりかねない紫外線が植物の身体を貫き通していく。身体を成す無数の細胞が光の洪水、過剰なまでの放射線の照射に悲鳴を上げているのではないかと思われたりする。
なんとなく、見ている自分には、生身の身体がジリジリチリチリと焦げだすのではと思われてならなくなったりする。
言うまでもなく、そんな勝手な心配など、まるで見当違いである。そんなことは分かっている。光との戦いの中で生まれ育ち生き抜いてきた植物なのだ。動物等よりはるかに殺気立ったほどの光の粒子の浸透・照射という環境に適合して生きているのだろう。
我々の目を癒し慰め息わせてくれる緑。滴るような緑の、なんという豊かさ。光が満ち溢れてくれば、一層、緑は濃くなり深くなり、葉っぱの肉は分厚くなり、ひたすらに数十億年来の進化の過程で獲得した生きる知恵を発揮し発散し、この世を緑の知恵で満ち溢れさせる。
理屈の上では植物の緑というのは、つまりは、光の反射に過ぎない。葉っぱが反射する光の波長が我々には緑に見えるというだけのことである。逆に言うと、緑色以外の短い、あるいは長い波長の光は植物の中の光合成する色素に吸収されるということである。
そう、植物は、光を食べて生きているのだ。貪欲に光を貪っているのである。緑が濃ければ濃いほどに、緑色以外の光を逃すことなく、安易に反射することなく、大地に洩れ零すことなく飲み尽くし食べ尽くしているわけである。
光合成というのは、「光エネルギーを化学エネルギーに変換するしくみで、地球上の生命活動のほとんどは、光合成によって産み出されたエネルギーに依存して」いる。「光合成のしくみは、海に生息する藻類で進化し」たという。
← せっかくなので、数輪だけ家の中に飾ることにした。でも、暖房を入れている部屋じゃ、すぐに枯れるし、玄関や仏壇はすでに花を飾ってある。結局、台所に。毎日、何度となく目にするし。
我々にとって馴染みの緑。植物というと、花びらはともかく、葉っぱは緑である。「進化的には、陸上植物の起原は、浅い場所に生育していた緑藻類と考えられ、緑藻類は陸上植物と同様な光合成色素を持ってい」るという。
つまり、「葉っぱが緑なのは、緑藻の時代に獲得した遺産を引き継いでいるからともいえ」るのである。
まあ、光合成の仕組みについても、奥が深く、ここでは軽く触れるだけに留めておきたい。
光合成によって植物は生きている、光を食べて栄養やエネルギーを獲得しているというのは、理屈では分かるが、では、さて、花びらは、どうして強烈な光に耐えられるのかは、実感的にはやはり分からないままである…。
さて、植物は、惜しみなく無償の愛を、恵みを、癒しをわれわれに与えているように見えるけれど、また、そうして緑の葉は萎れていき、花びらは凋んでいくけれど、まさに、我が子に無限の愛情を注いで、やがて窶れていく母のようだけれど、そうした我々の思い入れとは別に、彼らも懸命にしたたかに生き延びていこうとしているということだけは分かるような気もするけれど。
理屈はそうなのである。
いずれにしても、数十億年の営みの果ての生命の獲得した知恵の深さを思うべきなのかもしれない。
それはそうなのだけれど、いざ、路上で隠れる場所などなく、眩しすぎるからといって、日差しを遮る術もなく、ひたすらに日の光を浴びつづけるツツジの花を間近で見ていると、ただただ感嘆・驚嘆するのである。
そのツツジの花の季節も、そろそろ終わりが近づいている。長く楽しませてくれてありがとう、と言いたい。ではさて、ツツジの季節が終わったら、これからはどんな花や植物が我々を迎えてくれるのか、楽しみは尽きない。
→ 椿の花がこれでもかという勢いで咲いている。いつも不思議に思うのは、雪や霙の降るような時期にどうして咲くのかということ。虫だって寄ってこないのでは? 虫媒花や風媒花じゃなく、鳥媒花? 鳥が止まるのを見たことがないのは、人の気配がすると逃げちゃうから?
[本稿(本文)は、「ツツジの季節が終わる」(04/05/15)より抜粋。冬の雨や雪に降り込められる常緑の樹木などを見て、ふと、植物(の葉っぱや花)の生命力に圧倒されて書いた小文を思い出してしまったのである。拙稿「日の下の花の時」も参照願えればと思う。]
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