ルドルフ・タシュナー『数の魔力』の周辺(後編)
「無限」については、数学のみが正当性を以って扱うようになって久しい。
数学の世界においてにしても、決して「無限」を手なずけきったわけではないとしても。
→ ジョン・D.バロー著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社) 「無限」を題材に扱ったり、あるいは無限を感じさせてしまう著作は少なからずあるが、本書は内容の深さと面白さで際立つ。専門家でなくても、いや小生のように数式に弱くても、十分、未読できる。拙稿「無限の話の周りをとりとめもなく」において、本書で引用されている、ボルヘスやケプラー、カント、アリストテレスなどなどの気の利いた文言を幾つか転記して示しているので、是非、覗いてみてほしい。
「無限」をめぐる空想・瞑想・妄想は、しかし、数学者のみの専売特許であるはずはない。
数学の手法が繰り広げる無限の階梯の万分の一をも小生ごときに捉えられる…感取できるわけではないにしても、人は「無限」を想う、あるいは感じざるを得ない。
本書でも、扱いを間違えるとあまりにも危険な「無限」について、小生にも少なからぬ知恵を与えてくれている。
せっかくなので、ここでは、著者のルドルフ・タシュナーが「無限なるものの知覚をこれ以上ないほど的確に描写した」というローベルト・ムージルの一文を敢えて転記して紹介しておく。
「ローベルト・ムージルの教養小説『寄宿生テルレスの混乱』のある重要な一節」で、「テルレスは寄宿舎の庭の草地に身を横たえる」と著者は説明した上で:
頭上に広がっている空は、秋特有の、色あせたブルーだ。こぶしを握ったような、小さくて白い雲があわてて動いている。
テルレスは仰向けになってからだを伸ばし、前にある2本の木の、葉っぱの落ちかけた樹冠と樹冠のあいだを、まばたきしながらぼんやり夢見心地でながめていた。……
そして突然、気がついた。――こんなことははじめてのような気がしたのだが――実際、なんと空は高いんだろう。
ドキッとした。ちょうど頭上の、雲のあいだで、小さくて、青くて、とてつもなく深い穴が輝いている。
長い、長いハシゴがあれば、穴のなかまで昇っていけるにちがいないと思った。けれどもどんどん奥に入っていって、目をあげると、青く輝いている底は後退して、ますます深くなっていった。しかし、いつか底にたどり着いて、視線で底を引き止めることができるにちがいないと思った。その願いが、痛いほど激しくなった。
極限まで目標を定めようと、いつももう少しのところで目標に届かないかのようだった。
そこでテルレスはじっくり考えてみた。できるだけ落ち着いて、理性を失わないようにしようとした。「もちろん終わりはないんだ」と思った。「どんどん先まで、ずっと先まで、無限まで行くんだ」。じっと空を見つめて、そうつぶやいた。まるで呪文の力をテストするかのように。しかし効き目はなかった。言葉には意味がなかった。いや、むしろ別の意味があったのだ。それはまるで、おなじ対象について語っているのだけれど、その対象のもっている別の、どうでもいい側面について語っているようだった。
「無限!」。テルレスは数学の授業でこの言葉を知った。これまでこの言葉から特別なことを想像したことはなかった。何度もくり返し使われる言葉だ。誰かが発明したのだ。それ以来、固定したもののように「無限」を使って、確実に計算できるようになった。まさに計算のときに必要なものだった。それ以上のことをテルレスは求めたことがなかった。
ところが突然、ひらめいた。この言葉には、恐ろしく人を不安にさせるものがくっついているのだ。飼い慣らした概念のように思えていた。毎日それで、ちょっとした手品をやっていたのだが、突然、飼い主の手から放れてしまったのである。分別を越え、荒々しく破壊する力は、発明者の手によって眠りこまされていたらしいのだが、突然それが、目を覚まし、もとの恐ろしい力になったのだった。そう、この空のなか、無限がテルレスの頭上で、生きた姿をあらわし、脅かし、馬鹿にしているのだった。
あまりにも痛い光景だったので、ようやくテルレスは目を閉じた。
[ローベルト・ムージル『寄宿生テルレスの混乱』丘澤静也訳、光文社古典新訳文庫より]
← ローベルト・ムージル『寄宿生テルレスの混乱』(丘澤静也訳、光文社古典新訳文庫) 小生は未読なのだが、『特性のない男』のムージルにしては、BL(ボーイズラブ)な小説らしいが、案外と爽やかな青春(思春期)小説だとか。
小説において登場する青い空の場面というと、何といってもトルストイの『戦争と平和』だろう。
「アンドレイ公爵はアウステルリッツの戦いで将軍の副官として戦場に赴」くが、「彼の近くで大砲の弾丸が落ち」「アンドレイ公爵は傷つきその場に倒れた」、そのときに戦場で倒れながらアンドレイが見、感じたあの青い空である:
彼(アンドレイ公爵)は全身の血が失われていくのを感じていた。そして自分の上に遠い、高い、永遠の蒼穹(そうきゅう、青い空のこと)を見ていた。彼は、それが自分の憧(あこが)れのナポレオンであることを、知っていた。しかしいまは、自分の魂と、はるかに流れる雲を浮べたこの高い無限の蒼穹のあいだに生まれたものに比べて、ナポレオンがあまりにも小さい、無に等しい人間に思われたのだった。
[「名作を読む レフ・トルストイ「戦争と平和」を読む」より抜粋]
この場面にさしかかると何度読んでも(といっても、二度しか読んでいないのだが、実に印象的なので)深い感動を覚えてしまう。
決して、ローベルト・ムージルの描いた「無限」と同じ、というわけではないが、それでも、ある種の突き抜けた無際限さを感じてしまうのだ。
(生憎と、トルストイの『戦争と平和』を読んでの感想は、(たぶん)書いたことがない。関連する拙稿として「トルストイ著『生命について』」や「アンナ・カレーニナ…幸福な家庭はみな似通っているが」がある。参照願えれば。トルストイ論というと、つい先日も紹介したが、ジョージ・スタイナー著『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)が秀逸。)
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