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2010/12/31

冬の蕾のこと

 早朝から、これでもか、という勢いで降り続けていた雪は、お昼前には一旦、あがった。
 その後も、日中は冷たい雨が降ることがあっても、雪は降らず。

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← 「竜のひげ」の青い実。クリスマスを純白の世界に変えた雪も昨日までにほぼ溶け去って、ふと庭先を見たら、「竜の髭」なる葉群に青く小さな玉が。実だ。「ジャノヒゲ(蛇の髭)」とも呼ぶとか。「ジャノヒゲ」の根は麦門冬(ばくもんどう)と称し、各種「漢方方剤に使われる」とか。

 大晦日の今日は、寒波は九州など、西日本を中心に襲ったようだ。
 でも、今夜半からは、いよいよ雪の本場である北日本や北陸を襲う…らしい。


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2010/12/30

「天皇陛下のリンネ協会での基調講演」とノーベル賞(後編)

リンネ誕生300年記念行事での基調講演
原文(英文):「Address by His Majesty the Emperor」)

英国 平成19年5月29日(火)(ロンドン・リンネ協会)
リンネと日本の分類学 -生誕300年を記念して-(仮訳)

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→ 裏庭で健気に咲く椿(←間違い。山茶花だとか!)。つかの間の雪解けにホッとしている?

 今日はリンネの業績をしのび,リンネの弟子で日本のオランダ商館の医師として1年間日本に滞在し,「日本植物誌」を書いたツュンベリーなどにふれつつ,欧州の学問がいかに日本で発展してきたかということをお話ししたいと思います。

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2010/12/29

「天皇陛下のリンネ協会での基調講演」とノーベル賞(前編)

 過日、東京海洋大学の客員准教授さかなクン(さん)が、クニマス発見の功に関し、天皇陛下よりお言葉を賜ったという報道は記憶に新しいところだろう:

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← 井内史郎著『分子生物学でダーウィン進化論を解剖する』(講談社)

 このクニマス発見に大きく貢献され、近くクニマスについての論文を発表される京都大学中坊教授の業績に深く敬意を表するとともに、この度のクニマス発見に東京海洋大学客員准教授さかなクンはじめ多くの人々が関わり、協力したことをうれしく思います。  (天皇の発言全文は、「天皇陛下、会見でクニマス発見の「さかなクン」を名指しで褒め称える 【動画あり】」参照)
 今上天皇陛下は、生物学を研究されていることでも知られている。  

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2010/12/28

大山誠一『天孫降臨の夢』をめぐって(後編)

 聖徳太子虚構説など大山氏らの主張に対する異論・反論は、喧しい。
 詳しくは、「聖徳太子 - Wikipedia」や「1万円札の夢殿:「聖徳太子」の神話が崩れ去るとき(日本史・世界史) - ヒロさん日記」などを参照。

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→ 25日の日暮れ間近の頃、茶の間の出窓から屋根の雪を撮る。クリスマスの日の富山を真っ白な世界に変えた雪も、今日の曇天で(日陰の根雪は残して)大方は消えてくれた。でも、年末年始は猛烈な寒波が来襲するとか。また、除雪の日々で年を越しそうだ。

 小生は、大山氏らの論に説得力を感じる
 反論する方々は、聖徳太子信仰を壊したくない、天皇制幻想を傷つけたくないという切なる思いが先に出過ぎている気がするのである。

 聖徳太子というと思い出す事件がある。

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2010/12/27

大山誠一『天孫降臨の夢』をめぐって(前編)

 久々に古代史関連の本を読みたくなった。
 古代史(日本の考古学)のファンなら、小生が何ゆえ突然、そんな気になったか、もしかしるとピンと来るかもしれない。

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← 大山 誠一【著】『天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト』(NHKブックス 日本放送出版協会)

 そう、過日、マスコミを賑わせた、「牽牛子塚古墳 - Wikipedia」関連の話題が刺激になったのである(拙稿:「宮内庁は何を守っている?」参照)。

 久々にとはいっても、本ブログで話題に取り上げるかどうかは別にして(もっとも、「大和岩雄・著『新版 古事記成立考』を読む」などの記事は書いている。左記はとても面白い本だった。著者の大和は、「おおわ」と読む)、古代史や考古学関連の話題には関心を払っているつもりではいる。
 

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2010/12/26

雪掻きの褒美は体の火照り

 今朝未明、どうにも眠れなかったこともあり、三時ごろだったろうか、やおら起き出して、雪掻き!
 なぜ、思い立ったようにこんなことをしたか。

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→ 雪の降り出す数日前、とある橋から見下ろすと水鳥たちが。この日は麗らかな日和だったけど、昨日からの寒波の中、今頃どこで過ごしているのやら。野鳥たちは、雪の中、餌が見つからないのか、今までは見向きもしなかった、木の実をせっせと啄ばんでいた。

雪降りし木の実啄ばむ鳥一羽   (や)

  前日、矢来の激しい雪に、真夜中過ぎには降雪量20センチを越えていた。
未明には起き出して、新聞配達する人のために除雪しておこうと思ったけれど、寒さに負けて毛布に包まる温みから抜け出せず、起きたら八時をとっくに回っていた。

 新聞を取り出しに外に出たら、新雪には配達人の足跡が点々と、はっきり残っている。

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2010/12/25

こんな手があったんだ!

 つい先日、ジューサーを買ってきた。
 過日、さる人に、ジューサーでジュースにして飲んだら美味しいよ、なんて言われてハッとした。そうか、そういう手もあったんだ! てなわけである。

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← 昨日(24日)の午後三時前後、昼過ぎには霙(みぞれ)だった空が、雪に変わった。内庭もうっすら雪化粧。この程度の雪なら風情があっていいし、ホワイトクリスマスなんて気分に浸るのも悪くはないのだが。といいつつ、喪中ということもあり、我が家はクリスマスも正月も、一切、無縁。ひっそり。

 早速、十日ほど前に貰っていたリンゴをジューサーに掛けてみる。
 最初は音だけ煩く、でも、まるでジュースにならない。
 ふと閃いて、牛乳を少々注いで再度、スイッチオン。すると、見事に、呆気ないくらい簡単にジュースになる。

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2010/12/24

田中優子著『カムイ伝講義』の周辺(後編)

 田中優子さん著の『カムイ伝講義』に小谷野敦さんがレビューを寄せておられる。

 おや、小谷野敦さんの本を以前、読んだことがあるぞと、調べてみたら、同氏による『江戸幻想批判』(新曜社、1999年) を読み、感想まで書いていたのだった。

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→ 白土三平【画】『サスケ』(講談社)

 実は、小谷野敦さんによる『江戸幻想批判』の中の文言(出版社サイドの謳い文句)が、田中優子さんへの偏見が小生に根付かされてしまう契機になったようなのである。

 その箇所を転記する:

 田中優子『江戸の想像力』、佐伯順子『遊女の文化史』以来、「江戸は明るかった」とか「性的におおらかだった」という「江戸幻想」が盛んですが、その言説を上野千鶴子さんなどのフェミニストまでが支持する今日の知的状況に対して、その性的自由とは強姦とセクハラの自由であり、洗練された遊郭文化とは女性の人身売買の上に築かれた悲惨なものだったと、文学、歌舞伎、落語などの体験的知識を総動員して大批判します。

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2010/12/23

田中優子著『カムイ伝講義』の周辺(前編)

 図書館で美術書ジャンルの書架を物色していたら、「カムイ」なる題名に目が止まった。
 見ると、田中優子著の『カムイ伝講義』(小学館)である。

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← 田中優子著『カムイ伝講義』(一部は、内原英聡氏の原稿を元にしている。小学館)

 「カムイ伝のむこうに広がる江戸時代から「いま」を読む」という副題が付せられていて、「カムイ」なる劇画世界、漫画そのものを扱うわけじゃなさそう。
白土三平の『カムイ伝全集』全38巻を題材に、いまの日本を見直す意欲作」なのである。
 でも、講義の本文の下には、「カムイ伝」から少なからぬシーンが載っていて、やはり、その迫力ある画を見ると、読んでみようかと思ってしまう(必ずしも田中優子さんのファンでもないので)。

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2010/12/22

ルドルフ・タシュナー『数の魔力』の周辺(後編)

無限」については、数学のみが正当性を以って扱うようになって久しい。
 数学の世界においてにしても、決して「無限」を手なずけきったわけではないとしても。

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→ ジョン・D.バロー著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社) 「無限」を題材に扱ったり、あるいは無限を感じさせてしまう著作は少なからずあるが、本書は内容の深さと面白さで際立つ。専門家でなくても、いや小生のように数式に弱くても、十分、未読できる。拙稿「無限の話の周りをとりとめもなく」において、本書で引用されている、ボルヘスやケプラー、カント、アリストテレスなどなどの気の利いた文言を幾つか転記して示しているので、是非、覗いてみてほしい。

「無限」をめぐる空想・瞑想・妄想は、しかし、数学者のみの専売特許であるはずはない。
 数学の手法が繰り広げる無限の階梯の万分の一をも小生ごときに捉えられる…感取できるわけではないにしても、人は「無限」を想う、あるいは感じざるを得ない。
 本書でも、扱いを間違えるとあまりにも危険な「無限」について、小生にも少なからぬ知恵を与えてくれている。
 

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2010/12/21

ルドルフ・タシュナー『数の魔力』の周辺(前編)

 ルドルフ・タシュナー〔著〕の『数の魔力 数秘術から量子論まで』(鈴木直/訳 岩波書店)を読んだ。これも、新刊。新入荷本のコーナーじゃなく、書架で見つけた。まあ、今年の五月の刊行だから、真新しいわけじゃないけど、しばしば数学の書架を眺めていて、初めて気がついたので、きっと、今まで誰彼が(次々と)借り続けていたのだろう。
 運よくたまたま書架に戻ったのを手にし得たわけである。

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← ルドルフ・タシュナー〔著〕『数の魔力 数秘術から量子論まで』(鈴木直/訳 岩波書店)

 著者は数学と物理学の専門家。専門的な業績は知らないが、「近年は数学を切り口にした斬新な文化史的著作を次々と出版し、多くの読者を得ている」とか。さもありなん、である。

 ルドルフ・タシュナー…。
 名前だけからすると、あまりに、あの神秘思想家のルドルフ・シュタイナーと似ている、気がするのは小生だけか。
 なので、いまさら、そんな世界に触れたくなくて、名前だけで拒否反応が生じかけ、うっかり素通りするところだった。

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2010/12/20

真冬の月と物質的恍惚と

 真冬の月というのは、何か凄まじいものを感じさせる。空気が澄んでいるせいか、地上の全てが輪郭も鮮やかに浮き彫りにされてしまう。
 未明の頃に、人気もない公園の脇に車を止めて、月の影を求める。月の大きさなど、いつもそれほど変わらないはずなのに、目に痛いほどに輝いていて、大きさの感覚を微妙に狂わせてしまう。

               (中略)

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→ 明日21日の夕方にはこんな空模様になりそう。

 北欧などでは、日中の陽光など弱々しくて、むしろ逆に夜の月のほうがはるかに人に鮮烈だと聞いたことがある。
 日中は、そこそこに明るくても、それは当たり前のこと。それが夜のはずなのに、地上世界が余すところなく照らし出され輪郭も鮮やかに浮き彫りにされてしまう。まるで、自分の密やかな思いさえもが曝け出されているように想われて来る、のだろうか。

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2010/12/19

スタイナー それとも原初の単一言語(後編)

 ジョージ・スタイナーの著書は(ほとんどが)日本語にも翻訳されていて、小生も、『トルストイかドストエフスキーか』(中川敏訳 白水社)や『言葉への情熱』(伊藤誓訳 叢書ウニベルシタス・法政大学出版局)などを読んだことがある。

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← (月)命日でも何でもないが、今日は天気もいいし、お墓掃除に。寒い中でも生え始めている雑草などを毟ってみたり。背後の新しくて立派な墓に比べ、我が家の墓は…。せめて綺麗にだけはしておかないと。

 記憶があいまいになっているが、『ハイデガー』(生松敬三訳 岩波書店[岩波現代選書])も、大学卒業近くか、卒業しても先の当てもなくてブラブラ、アルバイトしつつ暮らしていた頃に読みかじったような。
トルストイかドストエフスキーか』などは、著者が30歳になる前に書き上げ、高い評価を受けたもの。

 小生が、スタイナーの諸著を読んでの感想は、「読書拾遺(サビニの女たちの略奪)」や、特に8年前には、「ジョージ・スタイナー著『言葉への情熱』、あるいは、電子の雲を抱く」なんて大仰な題名の感想文(にもなっていない、呟き)を書いたことがある。

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2010/12/18

スタイナー それとも原初の単一言語へ(前編)

 図書館へ行き、借りた本は返却し、新たに本を借りる。
 予約でもしていない限り、図書館で借りるべき本を物色する。
 そこには、出会いと同じように、運不運もある。

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→ 我が家の庭の方々に育っている南天の木。冬の雨に降られて、赤い実が一層鮮やかである。「音が「難を転ずる」に通ずることから縁起の良い木とされ、鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある」とか。鳥たちは、食べるものに窮しても、南天の実は啄ばむことはないらしい。サイトによると、南天の実は鳥の大好物だとあるのだが。

 バイオリズムじゃないけれど、波のリズムに合うのか、次に借りる本が見つかる時は、ホントにすぐに見つかる。
 新入荷本のコーナー(平台)で、それこそ手招きしているかのように、その本がすぐに目に入る。
 目と目が合うってわけじゃないが、題名なり著者名なりの時が多いようだが、時には本の装丁が関心を呼ぶこともある。
 

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2010/12/17

ジュラシック・パーク…恐竜再生(後編)

 鳥類と恐竜との進化上の関係はいろいろ言われてきたし、諸説あった。
 小生などは、羽を毟り取られた鶏(の蒸し焼き)を見て、あっ、恐竜だ! と直感した覚えがある。

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← 日暮れ間近の陽光を浴びる棕櫚。後ろの樹木は泰山木。寒波の襲来直前の光景。ひょろひょろなので、この冬を乗り越えられるか心配である。

 我が家には、昔、庭先にニワトリ小屋があった。
 畑からは野菜を、ニワトリ小屋からは卵を、家々を配達して回る魚屋さんからは魚をゲットし、母の手で食卓に並んだものだった。
 あるとき、死んだニワトリを見た(記憶があいまいだが、台所か台所の外の流し場だったかだったような)。体中の羽が抜け落ちている。丸裸のニワトリ。

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2010/12/16

ジュラシック・パーク…恐竜再生(前編)

 図書館へ足を運ぶと、まずは新入荷本のコーナーをざっと眺め、拾い物(?)があれば、そこで借りる本を選ぶ。なければ、カウンターへ行って、本を返却。ついで、返却本が暫時、並べられている書架を物色。

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→ 過日、とある海辺の脇を通りかかった際、列車の窓越しに撮影。日本海なのか、琵琶湖なのか。

 さらに、新入荷本らしいのだが、ずっと貸し出しする人が見つからない(らしい)本が並べられている書棚を瞥見。
 一ヶ月や二ヶ月では、並んでいる本は変わり映えがしないのだが、つい、習慣で、それに通り道でもあるし、眺めてしまう。

 なんだか、格子窓の向こうの売れない芸妓か何かのようで(といって、江戸時代のそんな場所を通りかかったはずもないが)、可哀想な気がするのだが、小生としても借りる気にはなれない。
 といいつつ、何度も目にすると、情にほだされるというのか、つい借りてしまうこともある。

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2010/12/15

常緑の葉、冬に咲く花

 それにしても、東京の都心という厳しい環境にあって、よくめげることなく木々や花々が育つものだと、無知な自分はひたすらに感心する。というより、圧倒されたりすることもある。
 太陽の光が燦燦と降り注ぐ。その中、緑は濃くなり、幹や茎は伸びあるいは太り、花は思い思いの装いを凝らす。

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← とある川の堰堤にて、一羽の鳥を見かけた。サギ? 実を屈めるようにして川面を眺めていた。

 見て愛でているほうは、ただ陽光をタップリ浴びて、植物は気持ちよさそうなどと思っているだけだが、しかし、よく見ると、日差しは情容赦なく木や花に突き刺さっている。逃げもせず、よくも植物は耐えているものと思ったりする。
 そんなツツジなども、五月も半ば頃となると、さすがに日の光を浴びすぎたのか、淡い紫というか目に鮮やかなピンク色の花も元気を失いかけている。中には茶褐色に変色し、明らかに萎れてしまっているものも見受けられる。

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2010/12/14

宮内庁は何を守っている?

 つい先日、「大田皇女の墓か石室を新たに発見 牽牛子塚古墳  (1-2ページ) - MSN産経ニュース」といったニュースがマスコミなどを賑わせた。

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→ 北海道や北陸など日本海側は、明日(15日)、平野部でも雪…。積雪の恐れもあるとか。それなりに雪吊りもしているけれど、大雪にならないでほしい…。

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」とは、「奈良県高市郡明日香村大字越に所在する終末期古墳で」、「国の史跡に指定」されている。 「「牽牛子」はアサガオの別称」だという。
 知られているように、「2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇と天武天皇の母とされる斉明天皇の陵墓である可能性が高まった」古墳である:
牽牛子塚古墳 - Wikipedia

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2010/12/13

魔女狩り(後編)

 彼女の身体検査と剃毛が終わると、拷問が行なわれる。真実を述べさせるため、つまりは、私は有罪ですといわせるためである。それ以外の彼女の発言はみな真実ではなく、また真実とはなりえない。

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→ 「近代精神医学の創始者と目されているピネルが、フランス革命時代に、鎖につながれていた精神障害者を解放」した場面を描いたものというが、不詳。(画像は、「なぜ人々はカルトにハマるのか?②魔女狩りと精神医学:イザ!」より)

 拷問は第一段階のものから、つまり比較的ゆるやかな拷問から始められる。ただし、それは次のように考える必要がある。すなわち、第一段階の拷問は実際のところじつに過酷であって、あとに続く拷問に比べればゆるやかなだけなのだと。そのため、もしそれで自白が得られれば、拷問なしに自白したと称される。

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2010/12/12

魔女狩り(前編)

 信じがたいことであるが、ドイツの民衆のあいだでは、それもとりわけカトリック教徒のあいだで、迷信、ねたみ、嘘、中傷、不平などが蔓延している。そのことを当局者は処罰せず、説教師も叱責せず、そのためまず第一に魔術に関する容疑が沸き起こっている。神が聖書でお戒めしている神罰にあたる行為はみな、魔女が犯しているとされる。もはや神や自然が何事かをなすのではなく、魔女こそすべての出来事の張本人だというのだ。

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← 不詳 (画像は、「魔法の光線 【スーパー戦隊シリーズ前史その63】 戦隊ヒロインBLOG」より)

 そこで、誰もが熱心に叫ぶ。当局者は魔女を取り調べろと(ところが、魔女の多くは、じつはそのように叫ぶ者の言葉から生みだされている)。


 命じられた裁判官たちは当初、どこから着手したらよいか分からない。証拠も証言もないからである。それに良心に省みて、正統な理由なしに事を企てる気にもなれない。
 そうこうするあいだに、裁判官たちは審理を開始するよう何度か勧告される。民衆はこのようにもたついていることこそ怪しいと叫ぶ。そして、諸侯たちは何者かに助言され、民衆とほぼ同様の事柄を確信するようになる。

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2010/12/11

魔女のネット宅配

 今夜、BSテレビ(BS日テレ )にて、「人類最古のエンターテインメント!マジック4000年の歴史」なる番組が放映されていたということをあとで知った。
 見逃した悔しさ。

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→ ドッソ・ドッシ Dosso Dossi (1490-1542) 「魔女キルケ(魔女メリッサ) (Maga Circe (Maga Melissa))」 (1523年頃  176×174cm | 油彩・画布 | ボルケーゼ美術館(ローマ))) 「16世紀に活躍した北イタリア出身のフェラーラ派の画家」。「本作にはアリオストの≪狂乱のオデュッセウス≫に由来する太陽神ヘリオスと女神ペルセイスとの間に生まれた娘≪魔女キルケ≫が描かれていると伝統的に唱えられているが、神官であったメリッサとする説も有力視されている」という。詳しくは、「ドッソ・ドッシ-主要作品の解説と画像・壁紙-」へ。

 こうなったら、せめて空想でマジックの歴史を辿ってみよう! …なんて思ったが、悲しいかな小生の想像力は貧困の極み。
 ここはネットの力を借りて。

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2010/12/10

孤高の人・高島野十郎

 小生の好きな画家・高島野十郎についての本が一昨年、出ていることは知っていたが、機会があれば買って読みたいと思いつつ、手元不如意の状況に変化が来ることはなく、しかたなく借りて読んだ。
 
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← 川崎 浹【著】『過激な隠遁―高島野十郎評伝』(求龍堂) 一昨日の日記「寒菊の身を寄せ合へし輪の恋し」に載せた玄関の生け花。その壺と比べる? 

 その代わり、読む以上は、特別な機会に、と思っていたら、絶好の機会(?)が訪れた。
 かねてより、京都の病院に検査・診断・診察に通っていたが、ようやく診察結果が下されることになり、またまた京都へ向かうことになったのだ。
 その列車の友として、本書を携えていったのである。

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2010/12/09

ブッダブロ画像は美しい

 あるサイトで、とっても美しい、神秘性すら感じさせる画像に出合った。
「マンデルブロ集合」の一種「ブッダブロ(buddhabrot)」だという。

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← 「ブッダブロ(buddhabrot)」 「白で100万回、青で10万回、紫で2万回反復計算を繰り返して得たブッダブロ集合」画像。「マンデルブロ集合」の一種。「形がブッダに似ていることから名付けられた」とか。(画像は、「ブッダブロ - Wikipedia」より)

「マンデルブロ集合」については、「サイエンス・イメージは美しく楽しい!」などでも扱ったことがある。初めてその描像群を見た時は、その鮮烈さに感動を覚えたものだ。


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2010/12/08

寒菊の身を寄せ合へし輪の恋し

 今朝の夢も変なものだった。
 夢の内容の大半は、いつものことだが、綺麗さっぱり起きた瞬間に忘れ去ったが、最後の数場面だけ、辛うじて覚えている(それだけでも、小生には上出来である。大概は、夢を見ていたようだったがという印象しか残らないのだから)。

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← 明日、9日は、父の月命日なので、仏壇の花、それと、仏花というわけではないが、玄関ホールの花瓶に生ける花を各種、買ってきた。ざっくり選んで、ざっくり生けてみた。誰も来ないだろうけど、せめて、花だけでも。

 発表会か講演会の会場へ小生は(誘われて?)行った。案外と少ない人数の会場。とても講演をするような会場ではなく、どことなく厨房の周辺に無理やり椅子を並べたような印象。なぜか、小生も講演で自分の意見を発表することに決まっているらしい。

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2010/12/07

寒いがゆえに人肌恋し

 バラは、豪奢さの漂う、一歩間違えると華美というより過美となりかねない危うい、ギリギリの瀬戸際で優雅さと気品を保っている花である。薔薇という名前もだが、棘があることが尚、薔薇を神秘的な、近寄り難い、それでいて気になってならない花にさせているようだ。

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→ 今日は、一昨日の晴れ渡った空が嘘のような天気。未明から冷たい雨に見舞われていた。そんな雨の朝、トボトボ駅まで傘を差しつつ歩いていった。そして京都へ。

 薔薇は外見だけではなく、香りあっての薔薇であろう。人によって好き好きがあるのだろうが、バスローブなどに薔薇の香などがほんのり含ませてあったりしたら、漂い来る香りだけで悩殺されてしまう。質のいい香水だと(めったにないけれど)、擦れ違った女性の余韻がずっと尾を引いてしまうこともあったりして。

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2010/12/06

彷徨える白猫追って夢の中

 朝、通勤途上に、普段は見かけない老いた白猫が、日溜まりに、そう、まるで温泉に首までどっぷり浸かっているかのように目を細め、うっとり陶然と坐っていた。

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← 東京在住時代のある時期、仕事で朝帰りすると、とある家の玄関先で出迎えてくれていた老いた白猫。2004/09/16に撮影。間もなく、亡くなってしまったらしい。

 大概は、その猫が飼われている家の玄関先のコンクリート段の上に坐っているのだが、その時は、陽光を浴びるためもあるのだろう、道路上に坐っているのだ。そんな場所に坐っているのを見たのは、初めてだった。
 でも、それ以上に嬉しいのは、白猫殿が健在だったこと。

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2010/12/05

カマキリも晩秋の空に凍えてる

浴槽の湯沸かし器での入浴、3回目。まずまず。

 昨日、4回目の入浴。使い方に慣れてきた。

カマキリや晩秋の空見つめしか

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→ 寒風吹き荒れた日に撮影。その翌朝には、姿が見えなくなっていた。

春の嵐ならぬ秋の嵐が通り過ぎた。日中の穏やかな晴れ間が午後、一変して暴風雨。それも、過ぎ去って今はシトシト雨の降る静かさ。

今日の嵐で家の前の木の枯れ葉が全て吹き千切られた。やっぱり、冬は来るんだなー。

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2010/12/04

「穴」嫌いを勘ぐってみる

 つい先日の日記「我が家の蔵のこと」の冒頭で、以下のように書いている:

 我が家の蔵がいつ、建てられたのか、父に聞きそびれてしまった。

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← 1945年8月1日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲予告のビラ。左下に「富山」の文字が書かれている。(画像は、「富山大空襲 - Wikipedia」より)

 聞きそびれたことは、これだけじゃなく、数々あるし、これからも折々、悔いの念と共に思い浮かんでくることだろう。
 さて、そうした父(や母)などに聞きそびれたことの一つに「地下壕」のことがある。
 

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2010/12/03

「NASAの大発見」余波

 一時、地球以外で、そう、宇宙で生命体を発見か、という憶測が巷をにぎわせた。
 話は、大きくなって、単なる地球外生命体どころではなく、宇宙人、発見か、とまで。

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→ とある学校の脇を通りかかった。杉並木。あれ常緑樹のはずの杉なのに、一本、すっかり紅葉というのか、赤茶けている。日当たりや風などの条件は同じはずなのに…。不思議に思って近づいたら、杉は杉でもメタセコイアなのだった。幼少の頃から、しばしばその傍を通り過ぎているのに、ただの杉並木と思い込んでいた。紅葉したあと、落葉するという。今日の強風と雨で、一気に裸木になっちゃうだろうか。

 いよいよ発表された内容は、期待をなし崩しにするものではなかったが、それでも大方の期待を裏切るものだったかもしれない。
「NASAの大発見」は猛毒ヒ素で生きる細菌 J-CASTニュース」によると:

米航空宇宙局(NASA)などの研究グループは2010年12月3日、生命の維持に通常必要とされるリンの代わりに、有毒なヒ素を食べて増殖する細菌を米カリフォルニア州のモノ湖で発見したと発表した。生命を構成する基本元素が別の元素で代替できることが発見されたのは初めてで、地球上よりも過酷な環境で生物が生息できる可能性が出てきたという。

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2010/12/02

「美術モデルのころ」の周辺

 長島はちまき著の『美術モデルのころ』(basilico)を読んだ。
 大阪出身の漫画家さん。「イラストレーターなどをやりつつ、1988年にこっそりデビュー」という方で、「著書に『チロといっしょ。』(桜桃書房)、イラストレーションに『猟奇的な彼女』(日本テレビ)など多数」だとか。
 小生には、まったく初耳の方。

Hachimaki

← 長島はちまき著『美術モデルのころ』(basilico) この挿絵たっぷりのエッセイは、終始「私、レンアイ第一主義です」という彼女のモットーに貫かれている。漫画家デビューを懇願しているが、しかし何より「レンアイが1番、仕事が2番」で、「だからいつも貧乏だった漫画家」さん、なのである。

 今、大部の本を読んでいるので、気分転換というわけではないが、重い(重量も中身も)本が憂くなった際、違うジャンルの本、手に持っても重くない本ということで、図書館で物色していて、本書を発見。
 美術(芸術)のコーナーの書架を何か面白い本はないかと探していたら、「美術モデルのころ」という題名が目に飛び込んできた。

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2010/12/01

我が家の蔵のこと(後編)

 実を言うと、今はもうほとんどこれというものが入っていない。
 
 小生が小学生になって間もない頃、父に案内されて、蔵の中を一階部分だけじゃなく二階まで上がって見て回ったことがある。

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← 今年の春、庭先の梅の木越しに蔵を撮ったもの。(画像は、拙稿「蔵は名のみの風の寒さや~!」より) 富山市の戦災については、「富山大空襲と母のこと」など参照。この(東に面する、鉄格子の入った窓のある)面の壁にグラマンの機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。今も、ブリキ(?)の板を外したら、残っているのだろうか?

 何か蔵から出す必要があって、蔵に入ったのだが、その際、いつかは何事かを知らせる意味もあってだろう、分厚い木材でできた急な階段を上って二階へあがることが出来たのだ。

 子供には一人では上らせてもらえなかった。
 小生も、勝手に上がるような<冒険心>のある子供じゃなかった。

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