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2010/11/08

我がタイムカプセル

 昨日の日記にも書いたが、東京在住時代、部屋に置き切れなくなった本、あるいは、もう二度とは読まないだろうと思える本や写真集などはダンボールに詰めて田舎(つまり、富山)へ送った。

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→ 食器棚の奥を整理していたら、干支(えと)の置物がまとまって出てきた。せっかくなので、テレビ台の中に勢揃い。ちょっと足りない干支が気になる。

 97年の夏以降、日本は極端な不況に陥り(不良債権問題などで)、景気に左右されやすい小生の携わっていた業界も、不況の波をもろにかぶってしまった。
 小生の収入も一気に4割以上、減り、新聞の購読をやめ、外食はやめ、美術館通いも諦め、映画は論外、とうとう好きな書店通いも縁遠いものになってしまった。

 ということで、蔵に仕舞ってあった本、つまりは、東京から田舎へ送ったは、ほとんどが十年以上昔、中には三十年以上も以前に買い、読んだ本。
 十年ほど前からは年に数冊しか本を買わないのだから、敢えて田舎に送る必要はないし、そもそも、送料がもったいないし、負担に感じてしまったのである。

 仙台を引き払って上京する際、あるいは、東京在住時代に都内を転居する際、時には部屋に本を置ききれなくなって、捨てるのもしのびなくて、仕方なくダンボールに詰めて田舎に送付したのだった。
 十年ほど前からは、不況になって、そもそも本(も雑誌も)を買えなくなった。なので、田舎には十年以上以前の本が結果的に残ったわけである。

 最初のうちは、父がダンボールを開いて、仏間の書棚や廊下に設置したスチール本棚に収納してくれていたが、だんだん、追いつかなくなって、送られたダンボールをそのまま蔵に収めてしまっていたのだ。

 箱を開くと、懐かしい本が次々と現れてくる。それは、心のタイムカプセルのようなもの。その都度の自分の関心の向き傾向がわかる。孤独を持て余して、書店をめぐり、本を漁り、夜を通して書に向き合う。
 時には、どうしても読みたい本と出合えなくて、切羽詰ってしまって、基本的に一度読んだ本は読み返さない主義の小生だが、ドストエフスキーの『罪と罰』や『白夜』、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』、ヘッセの『荒野のおおかみ』、チェーホフ、などなどを読み返したものである。

 昔は古書店にはまり足を向けず、新刊の本を売る店にばかり足を向けたが、あまりにめぼしい本に出合えず、苦し紛れに古書店へ足を運び、たとえばセリーヌ の『夜の果てへの旅』に出会った。漂白の魂なんて生易しい世界じゃないのだが、自分の貧しい心を圧倒するには、最高の本だった。
 それはそれとして、中村紘子さんの『アルゼンチンまでもぐりたい』などは、痛快なエッセイで、読んでから十数年は経ているのに、読んだときの印象が今も鮮やかである。

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← 街中で通りかかった松川。遊覧船が気持ちよさそう。

 ダンボールを開いて、本を取り出すと、読んだことを覚えていないどころ(読んだ本の内容を忘れるってのは、しばしばのことでいまさら驚かない!)か、買ったこと自体を覚えていない、本を見ても、まるでピンと来ない本が結構ある。土を掘り起こして遺跡(遺物)が出てきたはいいが、はてこんな本、自分が手を出す?ってなわけである。

 ところで、ダンボールを開梱してみると、本以外にいろいろと出てくる。
 日記類、業務日誌類、手帳、そのほかの書類などなど。
 
 ワープロ、そしてパソコンを使うようになってからは、日々の記録はネット上で書くようにしているが、しかし、ノートに書く手書きの日記も、15歳以来、ずっと続けている。
 といっても、ネットで(パソコン上で)書くようになってからは、日々の天気、買い物の記録、その日のメインの行動の記録をメモするだけになっている。

 日記帳の帳面には、スーパーやレジ、本屋などで買い物をしたレシートも必ず保存のため挟んである。電気・ガスなどの公共料金の領収書など、とにかく貰える領収書は全て保存している。
 これはもう、癖になっているので、今更やめられない。
 なので、逆にラーメン屋さんや銭湯、JRなど、領収書の呉れない相手は、なんとなく気に食わない。
 とにかく、二十歳ごろからの買い物の記録は原則全て取ってあるし、その気になればほぼ全て(銭湯へ行った際の入浴料など、支払ったおカネは必ずメモはする)把握することができるわけである。

 小生の(手書きの)日記は、ただの簡単な記録の羅列に過ぎないとしても、手書きの感覚は日々、感じておきたいので、これからも続けるつもりである。
 
 そうした私的な日記は、一年ごとにビニールの袋に詰め、それがたまったらダンボールに詰めて田舎に送付していた。
 
 たとえば、タクシーについても、日々の私的な記録を(コピー済みの用紙の裏面が白紙なので)適当な紙に(一日について一枚、使う)メモしてきた。
 97年の9月から20年の12月上旬までの業務の私的な記録は全て保存してある。
 その日のトラブルとか、どういう芸能人を見た、乗せた、とか、どこで休憩したとか、どこで食事したとか、、どこでトイレしたとか、どんな印象的な客が居たか、とか。

 別に何の意味があるわけじゃないのだが、性分というものなのだろう(か)。

 使用済みの預金通帳とかワープロやパソコンの説明書、何かの契約書、電気製品の保証書や取扱説明書の類も、捨てればいいのにと思いつつも、保存する始末。
 ここまで来ると、保存強迫症かもしれない、なんて我ながら思う。

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→ 田んぼの隅っこの一列にチューリップの球根を植えた。来春には一斉に咲いてほしい。

 そんなこともあって、富山を離れていた間の仙台や東京での生活の記録が長年、ダンボールに詰められていたのを、この度、一瞬だが日の目を見たわけである。
 といっても、今はゆっくり過去の記録(文書)を繙(ひもと)く心の余裕はないが、そのうちの楽しみに、日記(記録文書)類は、大事に取っておこう。


「箱を開くと、懐かしい本が次々と現れてくる。それは、心のタイムカプセルのようなもの。その都度の自分の関心の向き傾向がわかる」などと書いた。
 単に本だけじゃなく、日記帳や手帳、業務(私的)記録メモ類、などなどが写真(アルバム)などと併せて箱から出てくる。蔵の中に埃塗れになりながら保存されていたダンボールの箱たちは、小生にとってまさに文字通りのタイムカプセルなのである。

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