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2010/11/09

ケルトの装飾表現再考

ケルト文化の歴史についての本を読んでる(眺めてる)。興味津々。やはり、『ダロウの書』や『ケルズの書』の文様(装飾)は、見飽きない。

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← ロイド・ラング、ジェニファー・ラング著『ケルトの芸術と文明』(鶴岡真弓訳 創元社) 「ケルト人が紀元前5~紀元後1世紀のヨーロッパで生み出し、現在まで遺産として伝わる作例と、5~12世紀にブリテン島のアングロ=サクソン系以外の地とアイルランドで創造された作品とを鑑賞し、美術的な伝統について考察する」といった本だが、とにかく図版が多くて嬉しい。

縄文文化とケルズ文化を単純に類似を想像するのは、安易だろうが、比べるのは楽しい。無文字文化だからこその共通性がある?

 本書の特徴(魅力)は、写真の多さもだが、訳者の鶴岡真弓さんが「訳者あとがき」で述べているように、ケルトの「芸術作品の造形的特徴についての記述」の「細やかさ」であろう。図像で眺めて楽しむのは無論だが、212の図版「作品の、その1点1点は、まるで私たちが目の前に実物を置いて懇切なレクチャーを受けているかのような、緻密なディスクリプションに満ちている」点を堪能できるのがいい。われわれは(少なくとも小生は)、目で見て楽しむだけで満足できず、どうしても、感じたことを言葉で表現したいし、図像の細部を可能な限り理解したいという欲求は抑えがたいものがある。

思えば、鶴岡真弓さんや鎌田東二さんの本に影響されて、ケルト文化に関心を持ち始めた。「蛍光で浮ぶケルトと縄文か

もっとも、その前に、エンヤの音楽に魅せられて、ケルトに関心を持つようになったという前史があるような。

エンヤとはケルト音楽を下敷きに独自の音楽を展開する女性ミュージシャンのことであり」…以下、略す。

ケルト文化とエッシャーを結びつける人は、まず居ないだろう。連想する人もいないかな。似て非なる世界。でも、小生はついつい。
 さらに、本書において、鶴岡真弓さんが「訳者あとがき」で述べているように、ケルト芸術の魅力とは(中世の学僧が課『ケルズの書』などの装飾写本と向き合ったときに呟いたように):
 ケルトの装飾表現は眼で追えないほど繊細な組紐文様を縷々(るる)絡ませて無限循環させるがごとく、奥深く神秘的である。遠くから眺めるうちは、奇異で、ときにユーモラスな歪像(わいぞう)にしか見えなかったのに、ぐっと傍まで寄って眼を凝らすと、そこにそれを制作した人間たちがこの地上の工作物のなかに表そうとした、驚異のミクロコスモスが見えてくる。宇宙から生き物の身体までを映し出すような、ミクロの中のマクロな世界の「開け」にして「啓け(気づき)」がそこに到来するだろう。ギラルドゥス(学僧)の体験を想起すれば、ケルト芸術の真髄は「細部(ディテイル)に宿る」ということができるだろう。(以上、転記)

 ケルト芸術の精華たる遺跡(遺物)の数々を眺めると、ケルト文化とエッシャーを連想するのも、奇異とは思えなくなるかもしれない。

エッシャーの世界に初めて導かれたのは、遠い昔、少年マガジンでの特集を読んで(眺めて)のことだった。昔の漫画雑誌はレベルが高い
 もう少しだけ、鶴岡真弓さんの「訳者あとがき」での言葉を一部、転記する:
 島々や、森や、平原や、山岳、そしてヨーロッパを縫うセーヌ川やマルヌ川、ローヌ川や、ガロンヌ川、あるいはドナウ川やライン川、大西洋、黒海、アドリア海などに沿う遺跡の、ケルトの知られざる村の遺跡のひとつひとつが、かつてとそして現在のヨーロッパ文明を支える無数の幹となって生きてきたのであったことを、ページを繰るごとに実感するだろう。(以上、転記)

ケルトとはウロボロスの輪の積み重ね?」参照。

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← 「THE Celts 幻の民 ケルト人」<DVD仕様> 「1989年にNHK教育テレビで放送され」、このドキュメンタリー音楽を担当したエンヤ人気が世界的になると共に、ケルト文化への関心も高まった。 → 「鶴岡真弓コメント「ケルト文明の輝き 歴史と伝統の沃野へ(抜粋)」を見る」 容易に察せられるように、多くのファンタジー映画(物語)の発想の源になっている伝説の(…しかし、現在に至るも一層、影響を増しつつある)民族であり文化なのである。

ケルト文化というと、ハーン(八雲)か。

 都会といわず、富山の市街地でも、アスファルトやコンクリートの路面の下を想像するのは、なかなかしんどいが、ちょっとでも郊外へ足を伸ばすと、足下に、あるいは目の前の崖の一角に、丘陵の何処かに、われわれの先祖の弥生人、そのまた先人たる縄文人の足音が、奮う石斧(せきふ)や石のナイフの削れ砕ける音が、はるかに遠い余韻となって聞こえてくるような気がする。


ゲーデル エッシャー バッハ、そしてケルト、なんてのは、無理ですね。

 ダグラス・ホフスタッター著の分厚い、『ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環』(野崎昭弘、はやしはじめ、柳瀬尚紀 訳 白揚社)は、とうとう読み通せなかった。本書が出て20年が経ったとは。

岡本太郎さんもだが、梅原猛さんなら、縄文とケルトをめぐって、壮大な構想をめぐらしそうだ。
 梅原猛著の『森の思想が人類を救う』(小学館ライブラリー)などが関連の書として思い浮かぶ。
 そういえば、何年か前、すでに本書を読んでいたのだった。
 あるいは、吉本 隆明、梅原 猛、中沢 新一の3氏の対談の書である、『日本人は思想したか』(新潮文庫)でも、中沢 新一氏がケルトについても言及していた。アイヌ、アボリジニ、ケルトなどに通底する文化。
 この本も、小生は買っているし、読んでいたっけ。

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