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2010/11/19

沈黙に音を綯う

 一人には大きな家で暮らしている。
 夏から秋口にかけては暑さに辟易していたし、あれこれ落ち着かないこともあって、一人を実感することは少なかった。

 しかし、おおよそのことが片付いてしまうと、訪れる人も少なく、出かける用事も思い浮かばない。
 隙間風が身に堪える家では、通り抜ける冷たい風もつらいが、しーんと静まり返った、その無音の時の重さをひしひしと感じてしまう。

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→ 毎年、紅葉の始まる頃になると咲き始める。どうして、こんな寒い中、敢えて開花するの?

 家の中で音が聞こえるというと、たまに聞こえる板の軋みとか、台所の蛇口から垂れる水滴とか、折々家を揺るがす、表を駆け抜けていく車の音くらいのものである。
 CDやテープなどを流したりするのだが、気がつくと停止してしまっている。
 慌てて(慌てる必要もないのだが)他のCDを物色したりする。

 空虚な家を満たすのは、テレビでは雑駁過ぎるし、やはり音楽しかない。
 ふと、音楽をめぐって雑文をつづったことがあったのを思い出した
 幾つかあったのだがそのうちの一つを掲げてみる。


 音楽が好きなのかどうかを自分を振り返って考えても、結論めいたものは出てこない。そりゃそうだ、音楽一般では、あまりに漠然としている。それが、<音>ということに広げていいのなら、それがたとえ音楽よりもさらに茫漠としているという憾みはあるとしても、好き、というより、音に依存しているとも言える。
 無論、音にはいろいろある。分野はいろいろあっても、音楽と呼称されるもので、楽器に関連するもの、唄を中心としたもの、ハミングや口笛…。誰にも音楽とは呼ばれないだろう、部屋の中の冷蔵庫のモーターの音、水道の蛇口の栓が緩いのか、流し台にポタッ、ポタッと落ちる水滴の爆ぜる音。同居する人がいれば、別の部屋で動くスリッパの音、ドアのノブの音、テレビ、ラジオ、ステレオ、携帯、窓の外からの遠い歓声、喋り声、下手なピアノの練習の音、秋ならば虫の鳴き声、時折鳴る救急車のサイレン…、そして風の鳴る音。

 耳が誰よりも敏感というわけではないと思うが、学生時代など一人暮らしをしていた時には、騒音・雑音には敏感だった。一人で居る時には、食事を摂ったり音楽を聴くとき以外には、ひたすら読書していた。徹夜で読むこともしばしばだった。そんな時、音は、どんな音も邪魔だった。音が微かにでも耳に入ったら、読書はたちまち中断させられてしまう。

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← 縄張りを我が物顔にのしのしと。この白猫の他にやはり年配の黒猫もこの辺り一帯を縄張りにしているらしい。

 そんな時、音の出処に怒ってみたりするが、同時に、たまに、自分は本当は読書が好きではないのではないか、本の世界に読み浸っていないのではないか、本当は外の世界へ出ていきたい、なのに、外部から、読書とは無縁な生きた、現に動きつつある、生の世界の、その突端が自分を、読書より、そこには本当の世界がある、読書よりも豊かな世界がある、読書というより書物のネタ元となる現実の世界がある、お前は、そんな世界にこそ、立ち会うべきなのではないかと耳元で囁かれているようで、それで、雑音に過敏になってしまっているのではないか…、そんなことを思ってみたりする。

 音。音楽。自分には、好きな音は全て音楽である。音楽が、音を楽しむという意味合いで構わないのなら。別の何処の誰かが作曲した、誰かが歌っている、そうした人の手により形になっているものこそが音楽であって、自然世界の音の海は、音楽ではなく、あくまで音(騒音・雑音…)に過ぎないというのなら、別に音楽と称さなくても、いい。
 自分は自分なりに音を楽しむまでである。

 どんな音が一番、自分の琴線に触れる音なのか。
 となると、下手に作曲された音楽以外の全てとは言わないが、風の囁きを中心とした自然世界の音の大半は好きなような気がする。
 それは、絵画についても、写真芸術についても、あるいは文学などについても、同様で、自分がこの肉眼で皮膚で脳髄で胸のうちで感じ取り聞き取り受け止める生の世界の豊穣さを越えるようなものなど、ありえようとは思えないし、実際に、そうだったのだ。

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→ 昨日は咲いていなかったなずなのに、今朝、傍を通りかかったら、一気に。

 蛇口から垂れる水滴の、その一滴でさえ、どれほどの幻想と空想とに満ちていることだろう。そしてやがて、瞑想へと誘い込んでくれる。その様を懸命に切実に見、聞き、感じ、その形そのままに受け止めようとする。そこには、音楽も文学も写真も絵画も造形美術も舞台芸術も、凡そ、どんなジャンルの芸術も越えた、それともその総合された世界がある。

 その水滴一滴から、幾度となく掌編を綴ってきた。
 形は掌編という文章表現だが、それは自分には絵を描く才能も、音で表現する能力も、どんな才能もないから、最後に残った書くという手段に頼るしかないからであって、しかし、創作を試みながらも、そのまさに描いている最中には脳髄の彼方で、雫の形や煌き、透明さや滑らかさの与えてくれるまるごとの感動を、その形のままに手の平に載せようという、悪足掻きにも似た懸命の営みが繰り広げられている、想像力が真っ赤に過熱している。

(中略)

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← 夕方、所要から帰ってきて、玄関の戸を閉めようとしたら、煌々と照る月影に驚かされた。満月にはあと数日か。月影に誘われて散歩する…そんな風流心は萎えちゃっている。

 絶対零度に向かって限りなく漸近線を描きつつ近付いていく宇宙空間。
 裸で空間に晒されたなら、どんなものも一瞬にして凍て付いてしまう、恐怖の空間。縦横無尽に殺人的というより、殺原始的な放射線の走っている、人間が神代の昔から想像の限りを尽くして描いた地獄より遥かに畏怖すべき世界。
 感情など凍て付き、命は瞬時に永遠の今を封じ込められ、徹底して無機質なる無・表情なる、光に満ち溢れているのに断固たる暗黒の時空。

 その闇の無機質なる海に音が浮き漂っている。音というより命の原質と言うべき、光の粒が一瞬に全てを懸けて煌いては、即座に無に還っていく。銀河鉄道ならぬ銀の光の帯が脳髄の奥の宇宙より遥かに広い時空に刻み込まれ、摩擦し、過熱し、瞬時に燻って消え去っていく。

                         (「音という奇跡」(2004/10/27)より)

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コメント

一人でばかりいないで人と触れ合う用事を作った方がいいですよ、と言おうとして、自分もインドア派であることに気付く。偉そうなことは言えませんが、お互いがんばっていきましょう。またささいなコメントをさせていただくかもしれません。ではではまた。

投稿: 葉森木霊 | 2010/11/20 20:10

葉森木霊さん

介護、末期、通夜、葬儀、法要と、濃密過ぎる時をすごした反動なのかな。
それとも、やはり、性分なのか。

つい、本を読む時間を取れるかどうかを最優先する自分がいます。
これじゃ、あかんよね。

コメント、メッセージ、ツイート、なんでも、嬉しいです。

投稿: やいっち | 2010/11/23 20:43

しばらくSNSから離れた時間があったこともあり、
ご家族の状況をきちんと認識できていませんでした。
失礼いたしました。ご冥福をお祈りいたします。

しばらくは気を紛らわせるための(読書の)時間は
必要かもしれませんが、やはりこもりすぎには
お気をつけを。

投稿: 葉森木霊 | 2010/11/23 21:47

葉森木霊さん

再度のコメント、ありがとうございます。

最低限、親戚付き合いと近所付き合いだけは、めげずに続けたいと思います。
でも、男一人の所帯だと、近所のおば様方は相手にしてくれないね。
まだ、相続のゴタゴタが片付いていないので、町内会などの付き合いも敬遠している。
はやく、おおよそのことが片付けばいいなって思っています。

投稿: やいっち | 2010/11/23 22:41

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